どんよりとして空から暗い1日。鹿角は曇天ということである。
こんな日は車の運転も、教官や周りの人と話をするのも気めいる。
とくに退職を目前にしているであろう教官、失礼な言い方であるが、人生の大部分を車の中で、雑談をして過ごしていた教官と同乗するのは気がひける。話題は年金のことだ、政治がどうだ、WBCがどうだ、こちらが機嫌を損ねないように適当に相づちをうっていると、途方もないことをそれこそ壊れたラジオのようにしゃべりつづける。ラジオならましだ。それは生中継ではなく、何千回もくりかえされる再放送だ。
職業に貴賎はない。教習所の仕事は、交通社会の秩序を守るためにある。誰かがやらなくては、世の中は回らない。
わかっていても、こんな仕事はしたくないと思ってしまう。こんな仕事、とはいいかえれば学校的な仕事である。たんに知識や技術を継承することを目的とした、自己犠牲にもとづく仕事。そう思っていたこともあった。いや、いまでも思っているかもしれぬ。
世の中全体においてもそのことの意味はさておき、継承ということ自体に目的が置かれることがある。
なんのために働いてるの?
明日の飯を確保するため。明日の災いを予防するため。いまより先を豊かにするため。
経済的に物質的に豊かな場合、仕事の意味は、二次的なものになる。そういう状態が進むとそれは一緒の死、生きながら死んでいるようなものだと思う。
別に教官が皆そうだといっているわけではない。でも否定もしない。
本当にみなよい人そうでなのだが。
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