今宵も月夜に導かれ、

あっちの止まり木へふわり、こっちの止まり木にふわり。

いったいどこへ行き着くのやら。

そんな「月夜のみみずく」の自分のための備忘録

お化けになりかけた

2011年6月24日

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夜勤まえに家で仮眠していたら金縛りにあった�


目を開いた瞬間の視界が固定され、長い間動けない…�


説明しにくいけれど、まったく動けなくはない。
なんとか動こうとして、手をあげたり、膝を曲げようとしたり、寝返りをうってベッドから落っこちた…


�と思ったら不思議なことに、つぎの瞬間、またもとの場所に戻っている。鉛のように固くなった身体に戻っている。


動きたいから、それを何回もつづける。


意識だけが動けるようで、確かにベッドから落ちた衝撃は感じるのに、つぎの瞬間、またもとにもどるの繰り返し。


ユウタイリダツなんて、ばかげてるけれど、そのような状態に陥る。あるいは脳の錯覚で。


意識が、元の動けない身体の場所にもどらなかったら死んじゃうのだろうか。


金縛りの時間がどれくらいつづいたのかわからない。1分 いや10分……もっと長いあいだ……


取り合えずわかったのはユウタイリダツ、つまりお化けになっても、フワフワ浮けるんじゃなくて、重力でベッドから転落するということ。


あるいは不器用なひとだけそうなのかもしれない。

今夜見えない月

2011年6月16日

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ETUDE - a Wish to the Moon -
久石譲 2003

たまに月のイラストに惹かれただけで、本やCDを買ってしまう。
久石譲のアルバムだが、北野武やジブリの誰の耳にもなじむメロディーではなくて、不協和音の多い、目をかっと見開いたような、憑かれた曲ばかり。

「月」はいつも穏やかではなく、常に狂気を秘める。

村上春樹の1Q84・・・ 気づかないで読み終わった人もいるかも知れないが、写真では確認できないほどの 薄く消えそうな月が背景にある。

目を凝らすとたしかに月が2つ夜空に輝く、軌道をはずした世界。

明日の明け方、日本では皆既月食が観測できる。

3月12日に、夜空に浮かんだ不気味な月。

地震のせいばかりではない。
最近の月は、何か不吉なものを感じる。

月夜の…

有給に関する考えかた

2011年6月6日

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有休の事実

�有休を取るのは権利である。


�有休というのはとりずらい雰囲気がある。


�実際有給をとると、そのぶんだけ、ただでさえ人の少ない現場はさらに追い込まれる。


上司は、上記の事実を知ってか知らぬか、とにかくこういった。


「これからは与えられた有休を全て使い切りましょう。つかわないでいるとあとで泣きをみます」


まあこう言われれば
翌月から10ある有休の一日や二日分くらい消化する人も出てくる。やっぱもったいない気がするもんね…。なかにはいきなり月に半分消化するひともでてくる……


ともあれ、有休に対する考えかたはひとそれぞれ自由だと思う。


有休を使って、単に権利を行使するもよし。

有休を使って、自分をさらに磨く旅にでるもよし。

有休を使って、ひたすらだらだら一日を満喫するのもあり。


有休を取れるほど現場に暇はないと憤って、バリバリ働くのもいいだろう。


有休をとらないで、一日でも多く貴重な仕事経験を積みたい、そんな人もあるかもしれない。


大切なのは、まわりに振り回されないこと。


使うなら使って休む!
使わいなら働く!


……三年働いて自分の有休は使ったことがなかった。使ってみようか。


まるで、はじめておこずかいをもらって、駄菓子屋の前で躊躇う子どものような心境。

子どもの力

2011年6月5日

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職場は大事件がおきて混乱をしているが、
それとは関係のない話。

昨日同僚が、仕事終わったあとに小さい子どもをつれてきてくれた。

(狭い団地にいさせるのなら、職場につれてきて、職員におもりもしてもらったら・・・と入知恵をしていた。悪知恵ともいう)

子どもは素直なとこがあるから
しわくちゃのおじいおばあが、もろ手を挙げてあやそうと笑っても、
同じ様に顔をしわくちゃにして今にも泣きそうになり、「パパーあせあせ(飛び散る汗)

けれども次第に慣れてくる。
おっかなびっくり近づいてゆく。

生気の失われたお年寄りが、
子どもと同じ空気を吸うと、

そこには不思議なコミュニケーションが生まれる。

夜明け前の暗い湖の水面が、
一筋の朝の光を受け・・・風が吹き抜けていくように。

吹き飛んでしまう。
明日にも死にたいともらす、気力を無くしたおばあは立ち上がり、
恥ずかしがりやで言葉すくないおじいも、拍手をして喜ぶ。


介護職員がいくら昔の歌謡曲を覚えたって、
かなわない、力が子どもにはあり、

その力を受ける皿を、老人は持っている。

さて、帰り際で自分はなにをしたかというと・・・

シャボン玉をあげたり風船をあげたりして、いい子だねまた遊びにきてね、と。モノで子どもを釣ろうとする自分。子どもでもお年寄りでもない中間の「大人」って汚い。いや自分だけかほっとした顔
 
でも治療のあとおもちゃをくれたから、歯医者にかようきっかけになったなんてこと、だれでも経験あるはず。

そんなことをしなくても、本当は老人ホームやお年寄りは子どもにとって面白い要素が満載なのだ。

憤り

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以下は架空の話し。現実に存在する団体や個人には関係ない架空の話し。


頭部に打撲跡。それは昨日の夕方発見された。原因は不明。


それを家族が知ったのは、今日。家族がこちらにきてから。昨日の発見時に電話一本でも報告をしていれば、今日の顛末はなかった。あのとき、自分はその場にいた。すぐ家族に電話して報告すべきと思った。しかし看護師を含めた話しあいで、明日、来たとにすればいい、となった。だからしなかった。言い訳だ。


今日事実を知った家族は、怒った。いや怒ってはいない。静かに不信の目をむけた。相談のうえ、いますぐ責任者と話しをすることを希望した。当然といえた。自分がサービスを利用する家族ならそう思う。


しかし複数いる責任者とはだれも連絡が取れなかった。施設長をはじめ、最高責任者まで。みな不在留守電。だれにも連絡は取れない。


福祉施設の上長、それは休日だろうが深夜だろうが、連絡をとれないということは許されない。
しかしだれとも連絡はとれなかった。

折り返しの電話。


最高責任者はディズニーランドにいっている?ディズニーランドにいくのは、自由だ。休日の家族サービスをしていけないということはない。


けれどもかえす言葉を失った。あまりにも、火の車の現場とエンターテイメントパークのギャップがありすぎた。


人手不足でここには介護するのは自分ひとりしかいない。なにもない日ですら通常の業務だけで、手一杯の二人シフト。


一緒にいた上長である看護師は、このばに及んで追い撃ちをかけた。悪いんだけど用事があるから定時に帰りたいの。どうしても帰る。飲み会らしい。事態の深刻さを認識していない。


どうかしている。


ふざけんな帰るなとはいえない。かわりにこういうことて、残らせることに成功した。すなわちこの事態は、訴訟まではいかなくても、会社の信用にかかわるかなり深刻な問題に発展する可能性があります。そういうとき、いま現場にいるあなたが、私事で現場を離れていたとなると、あとでまずい立場に立たされるんじゃないですかねぇ?


やっと連絡のついた施設長は、自分は引き継ぎがすんでいないから、話しができない。まえの施設長に連絡してくれ、と。4月の人事異動から、もう二ヶ月たってんじゃねえか!引き継ぎがすんでいないなんて…


家族を三時間またせた。


聞いていたコミュニケーションがとれない家族なんかじゃない。とれないのはこちら施設職員の手落ちだ。クレーマーなんかじゃない。日頃のコミュニケーション不足が、こういうときさらに悪い要因としてマイナスに働く。


事実を述べ、記録をみせ、あたまを下げるしかできなかった。


上は経営には多少脳があるかもしれないが総じてばかである。


辞めたい。


辞めたい。でもまだ辞めない。どこの会社にいったってどんぐりの背くらべ。腐った老人介護施設。


自分は、助けを必要とする眼前の人ために働いているつもりだから。


ばか。

福祉における「合理化」のジレンマ

2011年6月2日

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合理化をめざす会社においては、当然残業をしない(なすべきことを時間内に終わらせる)職員が評価される方向にむかう。まあもとより残業しても残業代はでないからすで合理化されているのだが。


「時間内に業務を終わらせるなんてこと」は、ある意味、実に簡単なことだ。悪魔になればいい。


頑張れば歩けるじじばばを、すいすい車椅子にのせてトイレに連れていけばよい。


ゆっくりとなら自分でからだを洗えるのに、こちらで手早くちゃっちゃか洗ってしまえばいい。


よく噛めばたべられるのに、最初から食事をこなごなにすればいい。


自立を無視し、相手のペースを無視すれば、定時に上がる。ロボットのごとく。


だがそれは、当然まっとうな介護ではない。


ジレンマだ。


よく考えてみる。


こきあを雇っている会社は、確かに福祉業界では眉唾の「合理化」ばかり叫んで、職員は内心辟している。


が。「合理化」しろといっても少なくとも「良心」を捨てろとはいっていない。


いちおうは利用者対応以外のところて、テキパキ動け! といっている。


皿洗いとか汚物処理とかリネン交換、掃除とか。

(しかも忙しい姿を利用者に見せるな!)


求められる
レベルが高い。


その求められるレベルに自分は到底達していない。


悔しい。


もうちょっと修業が必要だ。

給料と合理化

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つきつめていえば、給料なんて、どうでもいい。自分を養うだけもらえれば。大事なのは精神の安定を保ちつつ、自立した一人暮らしを継続できること。そして、自分がまあ、まっとうに生きていると実感できる確かな手応えのある仕事をしたいだけ。

などと達観したふうに書いたが、給料が下がるのはやっぱり……いい気はしない。

4月から。夜勤手当がなくなった。よく考えれば雇用契約にはもともと夜勤手当なるものは書いていなかった。以降法律で決められた25%増し額が支給される。いわば法にふれない最低限の賃金である。

残業代は申請しなければまったくでなくなった。時間内に業務をこなし、定時に帰れるのが評価される職員なのだ、とうちの会社の上層部は考えた。

自分が従業員でなく、経営者ならまあ当然そう考えるだろう。たとえ現実に時間内に仕事をおわらせられる「有能」な社員がそういないにしても。

社会福祉法人が拡大するための経営
=合理化
=削れるもの全て削る。
といってじばばをテレビの前に座らせて、三食納豆ご飯にするわけにはいかない。サービスの質はをおとせない。だから人件費を削る。人件費を削ってもサービスの質は落とすな!

転倒してじじばばが入院すれば施設は一日いくらの赤字がでます。だから転ばせるな!転ばせたのは、職員がその時間帯、フロアをまわすのが一人しかいないからじゃない!一人で全てみろ。背中にも目をつけろ。

ようするに、給料を減らしつつ、人を減らしつつ、もっとじじばばの為にに働けといっている。いやじじばばのためではないかもしれぬ。もしかしたら…

とにかく、会社とは、無理難題を押し付けてくるものだ。その無理難題を解決すれば、成長するとでもいうのか?

ひとつ言えること。
サービスに関して、施設の運営に関して、なにが正しいのかなにが間違ってるのか。それは簡単なものさしがある。

自分がしわくちゃのじいさんばあさんになって、老いを背負うたとき、自分んとこの施設で暮らしたいと思えるか。

これに尽きる。

(明日に続く)