新しい2年生が続々と引っ越してきた。明け方なんだかんだ泣きごとたれといて結局はそれを手伝っている自分。けれども悪寒はなくなった。咳はまだくるしいけど。
今日すこしだけ気になったことがあった。在寮生だけに自分の家財を運ばせて、自分はポケットに手を突っ込んでいる一年生を目撃。照れ隠しかも知れないけど・・・・・・しかしこういうことは自分では気づかないから、ここで先輩の出番となる。黙っているのは楽だけど、注意するのは勇気がいる。卒寮していった先輩はそういう意味でできる方たちだった。自分にもできるだろうか。できない? いやがんばってできるようになります。
今宵も月夜に導かれ、
あっちの止まり木へふわり、こっちの止まり木にふわり。
いったいどこへ行き着くのやら。
そんな「月夜のみみずく」の自分のための備忘録
2007年3月31日
2007年3月30日
・・・・・・そしてパンフレットは完成した。
悪寒がひどくなった。寒いのに汗をかいている。とにかくむちゃくちゃにだるい・・・ これはひょっとするとインフルをうつされたかもしれない。
これでは今日の引越しの手伝いはできそうにない。 肝心なときに風邪を引く自分が恨めしい。 そして、寮とはいえ一人暮らしの身で、手ひどい風邪を引くことほど死にたくなることはない。経験のある人ならわかるとおもうけれど。願わくばただの風邪でありますように。とにかく寝よう。悪夢は忘れて寝よう・・・
あああ、雷が鳴ってきたよ~
熱があるのか体温計がないのでわからない。
悪寒とだるさ、咳がつづき、今日は文字通り一日中臥していた。
先輩が退寮される放送がいくつか流れたような気がする。
あしたから入寮する1年生を迎えるための掃除の放送も何回か流れたような気がする。
けれども起き上がることができなかった。
社長さんと新宿で飲んでいる夢をみた。
数え切れない夢をみて、なんだか夢と現実がごっちゃになった気がした。
よりによって夜中に目が覚めた。
さすがにもう眠れないから、朝までにパンフレットを完成させよう。
2007年3月27日
原付の旅、一週間前に訪れた能登半島で震度6強の地震がおき、僕がついさきごろ通り過ぎた現地からの映像がニュースで流れる度、ただただ驚いている。輪島では古い家屋が倒壊し、死者もでている。石川出身の友人も多いからちょっと心配。雪で苦労して通った246号線も崩れていた。
寮では一人、また一人と4年生が旅立っていく。
そして新しく2年生を迎えるための準備が着々と進んでいる。
「来るものは拒まず、去り行くものは追わず」
高校時代、友人の遺跡研究部の部室に貼ってあった紙にこう書かれていた。やる気のない部員が多い中、こういうスタンスをつらぬき通すのが伝統だった。企業ならつぶれている。この寮も入退寮の制限はしていない。だれでも入れ、かりにイヤになったら、いつでも出て行くことができる。
この寮ができて、何十回と繰り返されてきた出会いと別れ。
その一つ一つに物語があった。
在寮生である自分も、それを綴る一人。パンフレットもそろそろ完成しそう。
庭の杏子が、まもなく可憐な花を咲かせようとしていた。
2007年3月25日
20日(火)は 卒寮式でした ♪(’O’*)♪
寮を出て春から新しい生活を始める4年生の卒寮式があった。顔なじみの先輩がたを見送るのはさびしい。まだまだ話し足りなかったことがたくさんあるような気がして。その後のコンパは、おそらく今年いちばん盛り上がったのではないか。楽しさ半分、さびしさ半分。
酩酊のまま次の日から横浜へ帰省。横浜につくなり春彼岸ということで父方の墓参りをした。待ち合わせの駅の改札から出てきた、両親が周囲の視線も気にせず大口論しているのをみたときは失笑した。
なんでも父が待ち合わせの場所を間違えた挙句、携帯電話にもでなかったからのが原因らしい。父は携帯をもって一年がたつが、月一度か二度、愚息からの電話がある以外、1通のメールすらこないという。もちろん仕事関係でもだ。人づきあいが下手、ぼさっと間が抜ているのは父ゆずり。社交的だが思い込みが激しい、口やかましいのは母ゆずり。
僕のなかには一族の悪い血統(?)が余さず流れているのだと。これは親戚の評である。極端な性格の父母。足して2で割った結果、不安定でヘンテコな僕という人間が出来上がったらしい。割り切れない!
3月24日は母校の追い出し会でした q(・w<)♪♪
帰省の最終日は中学・高校時代在籍していた化学部の追い出し会に顔を出した。部長はT大、それ以外に2人がT工大という輝かしい結果を出している。化学部のみならず、今年 母校はなんの間違いを犯したか、開成高校についでT大合格者を輩出した。母校がいくら優秀でも、ビリビリランナーだった自分はなんともいいがたい。ただ、最難関大学を闇雲に狙う後輩たちに、「信大はいい学校だからおいで~」とはいえないのが残念だ。言ってもいいのだが、本気にされないのが進学校というところである。
昔の話に花咲かせるわけでもなく、無難な会話をして、そこそこと長野へ帰ってきた。あの化学部の6年間がいまの自分を形作ってくれたのは間違いないのだけど、いまとなっては、もどっていっても仕方のない青春(?)の通過点なのである。
2007年3月17日
最終的にメーターは 3486、8km。
今回の北陸行き走行距離計612、0km
最後の難関406号線。PM10:00。氷点下2度。越えたところには寮がある。
最後だけでも晴れてくれてよかったよ。
2007年3月15日
- バイトに行く以外、一日寮にこもって冊子を作っている最近。
2007年3月7日
やってまいりました、金沢。前日22℃だったらしいここ、今日はこの冬いちばん大雪。氷点下1℃。
今日唯一和んだのは 日本一長いベンチがある砂浜で、透明のさくら貝を拾っていた時だ。 泊まる場所とある程度のお金の余裕があるものの、これほどひどい旅もなかなかないだろう。
2007年3月6日
長い長い1日… 雹に顔をぶたれすすみ、とまりすすみ。富山、高岡、氷見、えっとこのホテルは……そう輪島、の行程。
とくに暗くなりつつあるなか能登半島横断は悪天候で死ぬかと思った。文字通り直径最大4ミリの氷粒か針のごとく顔にささり、手先足先はしびれた。それが無限の時を経るような錯覚にとらわれるのだ。
なぜいまここでこんなことをやっているのか。それは中毒に似ている。行き先標識左右の地名がともに全く知らんものだったとき、トラックにあおられるバイパスに入ってしまったとき、一秒悩む。しかし戻るという選択肢はない。これじゃ遭難する登山者と一緒だ。
2007年3月5日
で、今宵の宿泊先は初の健康ランド。自然の猛威にはかなわなかった(ノ_-;) 富山市は20℃という5月並みのあたたかさ。しかし県内全域に暴風警報、トラックは横転するし、学校の窓ガラスは割れるし、よくもわが原チャさまは吹っ飛んでしまわなかったものである。風に加え針のように頬をさす雨に耐えられず、テント泊は不可能と判断。
おおいにとまどって入った健康ランド。内部はいろんな施設があって大混雑。しかもその98%は、人生を引退したおじいちゃんおばあちゃんである。
老人たちはカラオケをしたりテレビをみたり酔っ払って階段で寝たりパチスロでハッスルしていたりした。
送迎バスの放送なんかもあり、ここは富山市大デーサービスである。
悪天候で凹んでいた僕はちょっと元気を取り戻した。健康ランドだけに。
ただ、いささか経験としては今回の旅は…
まだわからない。第一目である。明日の北陸、予報は大荒れ、寒さと雪(>人<)
走行距離200キロ。ようやく富山市に入った。朝からものすごい風。電光掲示をみたら暴風警報がでているとのこと。
雨は岐阜県に降りたあたりから弱まったものの相変わらず怪しい雲行き。
晴れたら能登半島を回りたいと思うものの(ノ_-;)
黒のLet′4 が塩カルで灰色になってる。富山についたら洗車しないと!