今宵も月夜に導かれ、

あっちの止まり木へふわり、こっちの止まり木にふわり。

いったいどこへ行き着くのやら。

そんな「月夜のみみずく」の自分のための備忘録

nur wer die sehnsucht kennt,weib was ich leide. 憧れを知るもののみ…

2011年10月30日

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nur wer die sehnsucht kennt,weib was ich leide.
憧れを知るもののみ、わが悩みをしらめ。
 
出勤前の寝ぼけ眼で、携帯電話の待ちうけに流れるニュースを見ていた。
 
——北杜夫氏、亡くなる。
 
東京に冬の訪れ告げる風が吹いた日、2011年10月27日の朝。みみずくの大好きな、そして最も影響された人が亡くなった。
 
最初に北杜夫の著作を読んだのは中学校の図書館だったと思う。精神の枯渇といえば恰好いい。けれども難しい本は読めない学力だった。
 
小学生の低学年の頃、江戸川乱歩や椋鳩十、ズッコケ3人組ばかり読んで、それだけで本に親しみを覚え ていたつもりだった、児童書や児童文学の先には大きな壁があったようで、みみずくには中学高校の図書館は。まさに装備なしで未開のジャン グルの奥地に入った心境だった。そんななか軽妙なユーモアで綴られた氏の北杜夫の本は、進学校でおちこぼれにな るまいと必死だった少年に、ある種の逃げ道・・・氏の言葉で言えば韜晦の術を教えてくれた。手当たり次第に読んでいた時、惹かれたのがドクトルマ ンボウ航海記、文庫本だったと思う。
 
歳月は流れ、みみずくは、いま精神科にいけばはっきり鬱病と診断されるの高校生になった。いまから思えば笑い話だが、学校と予備校のカリキュラム をこなす重責につぶされそうな日々だったのだろう。実家にあるアルコールを探しては、こっそり飲んで、飲んで、山に向けて走ったりした。酒臭い息 で二日酔いで学校にいった日もあった。
 
最初の全国模試だったと思う。みみずくの周囲は皆、志望大学を「東大」にしていた。最初は目標を高くすることは大切だったし、なにより、高校生 は、大学をいかなる役割を持った機関かしらなかった。確かみみずくは「早稲田大学教育学部」か「心理学部」のマークを塗りつぶした。理由は単純 だ。「早稲田」は「バカ田」と呼ばれていたこと。そして心理学部は、自ら病んでいたこと。しかし図書館で読んだ「思春期の発達の」に関する本によ ると、自らが病んでいるという理由で心理や精神の未知を選ぶことはダメであるとあって、落胆した記憶がある。
 
「東大京大少なくともマーチ」、教室の仲間や教師の唱える呪文にのっとり、仲間は模試で次々とB判定で狂喜乱舞したり、E判定を倉って失望したり していた。重責に推しつぶれそうになりながら、それから逃れ、非行に走ったりすることもなく、17歳のみみずくは環境に順応していった。授業が終 わると、放課後自習のようなサークルも作って、一見真面目に勉強したので、成績は悪かったが、担任からの評判は良かった。何冊もの読みきれない参 考書を抱え休日は横浜中央図書館の地下にある自習室に通って自習する日々が続いた。合間にカントだかキルゴールだとか、皆目着かない本をとっては 戻したりして・・・息が詰まるように、参考書を開いている同世代で、そこはいつも満員だった。もっともみみずくは男子校だったので、可憐な女子高 生がいるたび胸をときめかせて、その背中にばかり目がいき、解の公式の証明などどうでも良くなってしまったが・・・
 
話が飛んだが、つまるところその公立図書館に、リサイクル文庫という、入らなくなった書籍を置き、だれでも自由に持っていってよいとされるコー ナーがあった。そこで再び北杜夫の、古めかしい本を発見したのである。「どくとるマンボウ青春期」 中央公論社 \360… 昭和44年刊とあ る。
 
 
 
(明日は早朝から仕事があるので続く)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

聖母マリア

2011年10月20日

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中央のステンドグラスから朝の光が小さな聖堂のなかにいるみみずくたちを静かに優しく照らしていた。


外は潮風が少し冷たく強いのに建物のなかはの空気は静まりかえっていた。キリスト十字架、左右に偶像、片方は赤子を抱いていたから、マリア様と思われた。岩戸の下で、星の輝きのもとで、羊たちに囲まれるなか、神の子を身ごもった女性。


午前は利用者を連れて短いといっても2回も散歩にいけた。特養で半年かかって2回しか散歩にいけなかったことをしぶしぶ思いだす。比較すれば劣悪とは決していえないけれど、人生のついのすみかとしては少々寂しすぎる場所だったかもしれない。

徐々に仕事がわかってくる。コミュニケーションなどできないのではと疑った子どもたち、大人たちは、言語を超えたあらゆる次元の方法で、意思疎通をしているらしい。ただまだ、日の浅いみみずくはまるで突然異国に漂着したように、その一部しか垣間見えないけれど。


はやく仕事を覚えたい。
ことに自分より年下の小さな子どもにたいしてその仕事とは、決して親にはなれない、けれども親的な役割を担うことであり、ときにはそれ以上である。

手紙

2011年10月16日

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手紙を書く。


手紙はご無沙汰だ。
みみずくの好きな遠藤周作に触発されて、怠け心に打ち勝ち、文をしたためる。


相手は、大鬱病のときに、面会にきてくれた大学の教育社会学の先生と、そして寮でお世話になった亡き先輩の両親へ。


あなたさまのおかげでいまの私がいます。あなたがいたから、みみずくはいま、なんとか生きている。伝えたいのはそれだけ。


小さな命を守る重心の仕事、二週間たった。


みみずくは、毎日強い海風に吹かれて、日々強くなっている。

あるいは強くならなきてはならない。

鈴虫の音とともに…

2011年10月14日

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夜ベッドに寝そべっていたら、窓の外からもろに女の人のあえぎ声が聞こえ、思わず、窓のそとをみる。性に目覚めた思春期の少年ではあるまいに、ちょっとどきどきしたりして。


壁の薄い、築年数100年の浅間温泉時代の下宿を思いだす。ベニヤ板には画鋲の穴が、まるで天の星のように無数にあったっけ。


性の営みに、みみずくは死を連想した。


もしも、生きる目的がセックスをし子孫を残すためで、生命はより環境に適応した強い遺伝子を運ぶためだけの舟だと考えるなら、人間や生物はあまりに哀しい。哀しすぎることで溢れてしまう。


けれども。生きていることは、それだけで世界に影響を与える偉大なこと。そう考える。だから文字通り死んでしまったひとですら生きているといえるし、私を励ましてくれることもある。世界を変えている。


重心の子どもたち大人たちは、助けがなければ生きていけない。自分から主体的に発信することもままならない。


けれども人間対人間の双方向の関わりやぶつかり合いから生まれるさまざまエネルギーは、社会にでることのほとんどない閉鎖的な空間すらを越え、この世界を少しずつ変えていく。


……今まで気がつかなったが、おかげでうちの二階の窓から江ノ島の回転する灯台の明かりが見えるけとを知った。


以上、性と死に関わる連想のお話でした。妄想にならなくてよかったわ。

初めての休日の日課

2011年10月6日

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海沿いの電車にのって、残した残務…交通事故の後始末や、銀行の手続きなどをして、


時間があったら仕事で推薦された専門書を買いに横浜までいこうと思ったが、くたびれてやめた。ネットが来週つながれば、わざわざ出向かなくても買えるし、それに、専門書を読む以前に覚えるべき基本的なことがたくさんあった。


新しい職場でフルに働けるように、日常生活では睡眠を充分にとり、なんらかの方法で蓄積された見えないストレスを発散し、余力を残すことを心がける。なおかつ、毎晩、腰痛予防の筋トレをする。部屋にはロフトがありそこからちょうどいいかんじに、金属の手すりが下にでていて、洗濯物を部屋干しできるほか、ぶら下がって、腕を鍛えらる。伊豆七島で登山をしたおかげで、半年の特養生活でなまった身体が、目覚めたようなかんじ。


そして、熟知するのに三年かかるといわれた利用者50人のリストをリフィルにして一冊の手帳を作る。


最後に、一年の封印を破り、8月から処方された抗うつ薬、向精神薬、安定剤を飲む。再発したというのではなく、引っ越しや転職などの環境の変化は、うつの引き金になるから、あらかじめの予防策としてだ。


不安定がなければ、いまのみみずくはいないし、いまの仕事もしていない。


たった一錠で人格が変わってしまう、精神薬の本当の恐ろしさは、特養で改めて知った。そして退職の間際、ある利用者の処方量減らすことを働きかけることに成功した。薬物は必要以上に、飲む必要はない。それは最終的には主治医が決めることだが、自立している人間の場合本人が決めてもいい。


そうして、今日1日生きのびたたことを感謝し、明日の幸運を祈って眠る。


いつからみみずくは神様を信じるようになったのか?

仕事

2011年10月1日

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特養に異動になる前、認知症のかたが入居するグループホームで働いていた。


仕事としての介護は初めてだった。認知症という脳の萎縮による症状に対面するのも初めてだった。(多重人格など精神障害には、自身が入院してやや理解があった。大学で留学する人より、隔離病棟に入院する人が少ないなんて!)


さてそのグループホームのアルバイト、思えば答えのない、難しい仕事だった。目的は、まざまな働きかけと受容によって、古いこばでいうとと問題行動、徘徊や暴言暴力など原因があって生じるさまざまな周辺症状を緩和すること、さらに生きがいや楽しみ、があって幸せと思える人生の最後のお手伝いをすることにあった。


それは理想であり、完璧に果たすことはできない。介護の途中に、こちらが理不尽に思ってしまったり、時間に追われ苛立ってしまうこともあった。受容することは、相手の生きてきた人生のエネルギーをまともに受けることで、生半可な気持ちでは続けられない。


おいしいといってもらえるような料理、きれいといってもられる料理の腕を磨いたり、夏を前に畑を耕したり、野原の花を摘んで飾ったり、楽器片手に一緒に歌ったりする。


嵐の合間に、そんな、小さな、ことをたくさんする。記憶はなくなっても、"感情のようなもの"は残ると思った。たとえばストレスはたまるものであり、忘れて0になるということがないように。


それが仕事だった。いいやそれは仕事というより、単純に人との人間的な関わりだった気がする。

明後日からは高齢者介護とは離れる。


でも福祉は身体のもつまでは、まだ辞めない。