今宵も月夜に導かれ、
あっちの止まり木へふわり、こっちの止まり木にふわり。
いったいどこへ行き着くのやら。
そんな「月夜のみみずく」の自分のための備忘録
2009年3月27日
夜があけたら、僕はこの住み慣れた あけぼの寮から出なければならない。信州大学教育学部妻科寮……
もうここにはいられない。そんな日がとうとう来てしまった。想像だにしなかった。それがこんなにも嫌なことだなんて。すごく嫌だ。とても笑って別れることはできない。辛くしんどい時間もたくさんあったけれど、いま僕は寮を出たくない。もっともっといろんな人と関わるべきだったのに。それが今年一年できなかった。なぜかできなかった。
明後日から先の見えない夜の大海原に放りだされる。実家にもどるけれどそこはもうすでに自分の居場所ではない。飛びたつとは決して言えない。巣立つ。それがみみずくにとって似合うことば。みみずくはまだろくに飛べない駄鳥の部類だから。
そういえば……いま手元に玉ねぎと、小麦粉と、青のり、何ヶ月も冷凍備蓄していた豚肉の100%脂身が余っている。あとお酢とソースと醤油。これだけで、何が何でも食いつなぐ。お好み焼きというかお残り焼きを作ってひとり暮らし四年間の集大成である、ささやかな夕食を作る。ひとりで黙々と食べる。
自炊するときはいつもひとりだった。ひとりよがりの独善的料理。僕はそれでよいと思っている。僕は人がなにを言おうと料理はうまいと確信している。なぜなら自分が満足するものしか作らないから。
明日は、あとくされなくかつ潔く、ささっと出ていこう。人によそよそしく見送られるのは嫌だから。もっともわざわざ玄関まで見送ってくれる人がいればの話だが。
2009年3月24日
ひとり、またひとり、寮を去っていく。
みんな僕の知らない土地へ、知らない生活を始めに、ひとりまたひとり去っていく。
このまま僕が、なにも動かなければおそらくもう二度とあうことがないひとたち。去年のいまごろ、部屋で伏せていて、本当に二度と会えくなってしまった人も多いから、なるべく見送りたいとは思うけれどなかなか外にでる勇気がない。
って……自分はいつここから撤収するんだ?まだ部屋は荷物でごちゃごちゃしている。
想像していたよりも耐え難い時間なので 部屋からすたこら逃げだすことにした。
市役所にいって除籍をして、病院にいって 当分の薬をもらって……
気は紛れない。やっぱり帰る。
2009年3月23日
四年前、僕の荷物はトランク一杯だった。
それがこんなにも増えてしまって…
みんな役にたった。みみずくの心の支えになった。安定をもたらした。
だけどいま、僕に必要なものはほとんどなにもない気がする。
あの世にはなにももっていけない。
必要なものを選ぶって実はとても簡単なことなんだと思うよ。
2009年3月22日
よれよれのスーツをきて、寝ぼけ眼で県民文化会館へ。
あっというまに卒業してしまった。なんの感慨もない。帰りに友達とラーメンを食べて、学生生活のすべてはあっけなく終わった。
希望もなく、下を向きながら晴れ姿の人ごみをかきわけて歩いている自分を、寂しいと思った。
もうなにも引き取めるものはない。行き先のわからないまま、とにかく部屋の片付けにとりかかる。目の前のやらなくちゃいけないことしか、先が見えない。
縁起でもないが、遺品整理をしているような気持ちである。空虚……心のなかに、ぽっかりと穴があいたまま、黙々と荷物を片付けてる。
そうしているうちに、いつしか目標を見失っている自分に気づく。
そんな卒業の日だった。
このままじゃいけないと思っている。
2009年3月20日
教えてもらっている立場で文句をいうなんて!
そんな僕にも手をふって送ってくれる人がいる……教習は終わってしまった。試験はなんとはなしに受かった。
いま盛岡駅で東京行きの深夜バスをまっている。あと五時間まち。久しぶりにひとり、反省会。(激励会も兼ねている)
最近の自分を振り返ってみると、みみずくの言動はなんだかトゲトゲしい。イライラしていた。
長野にはイライラという名前の山菜があって触るとトゲが刺さり、蟻酸で手が荒れるが、最近の僕はそんなイライラに似ている。イライラのほうはは調理すれば食べられるのだけど。
どうしてそんなにイライラしなくてはいけない?
それは、来月から無期限のあいだ、神奈川に帰らなければいけないからだ。3月あたまにくるはずの教育委員会から電話がこない。人手不足だといっていたのに……
通院歴が関係しているのだろうか。たんに空きがないのか。後にも先にも進めないとは、まさにいまのこと。
進めないときは、焦ってもしかたない。立ち止まってこそ、できることを探してみよう。なにがあるかな……?
長い目でみれば、いまの停滞は退職後の余暇が前倒しになったようなもの!
なんと、あたまもからだも若いままで!!
えらいことじゃ、盛岡から走って長野まで帰れそうな気がしてきた。
どんよりとして空から暗い1日。鹿角は曇天ということである。
こんな日は車の運転も、教官や周りの人と話をするのも気めいる。
とくに退職を目前にしているであろう教官、失礼な言い方であるが、人生の大部分を車の中で、雑談をして過ごしていた教官と同乗するのは気がひける。話題は年金のことだ、政治がどうだ、WBCがどうだ、こちらが機嫌を損ねないように適当に相づちをうっていると、途方もないことをそれこそ壊れたラジオのようにしゃべりつづける。ラジオならましだ。それは生中継ではなく、何千回もくりかえされる再放送だ。
職業に貴賎はない。教習所の仕事は、交通社会の秩序を守るためにある。誰かがやらなくては、世の中は回らない。
わかっていても、こんな仕事はしたくないと思ってしまう。こんな仕事、とはいいかえれば学校的な仕事である。たんに知識や技術を継承することを目的とした、自己犠牲にもとづく仕事。そう思っていたこともあった。いや、いまでも思っているかもしれぬ。
世の中全体においてもそのことの意味はさておき、継承ということ自体に目的が置かれることがある。
なんのために働いてるの?
明日の飯を確保するため。明日の災いを予防するため。いまより先を豊かにするため。
経済的に物質的に豊かな場合、仕事の意味は、二次的なものになる。そういう状態が進むとそれは一緒の死、生きながら死んでいるようなものだと思う。
別に教官が皆そうだといっているわけではない。でも否定もしない。
本当にみなよい人そうでなのだが。
2009年3月18日
今日はいやな事があった。
僕は自分でも馬鹿らしいくらい落ち込んでいる。
本来ならば今日は卒検をうけて、教習所からおさらばする日であった。
しかし僕は途中の検定で脱輪したため、卒業はあさってになる。
海辺のカフカを読んでいた昼休み、試験に受かった高校生(いつも二人で連れ立ってみみずくjと同じホテルに泊まっている)のひとりが、おもむろに僕の前にきて話しかけてきた。いままで、ホテルで一回話しかけたことがあるが、そのとき、僕に向かって冷笑した感じのわるい(僕にとって苦手な)人だった。
高校生「自分は今日受かったんですよ」
みみずく「ああ、そう、おめでとう」
たったそれだけのことである。図ったように周りの人が観察していて、忍び笑いをしている。僕は、大人気なく、そいつを外に出してぶん殴ってやろうかと思ってしまった。実際それをしかけた。
たったそれだけのことで、僕は今日一日中落ち込んでいる。たかがそれだけのことなのに! なぜ? どうしてそんな些細なことに苛立つ理由がある!?
でもいらいらしている。
ひょっとしたら、来月からの生活が見通せないことも原因かもしれない。
確かに、その高校生の言動は、僕が他人で、冷静にみてもどうかと思うが、そんなつまらないこといら苛立つ自分に悲しくなる。
本当に悲しくなる。
本当に悲しい。
きがつけば、もう春がきている。あれから一年がたとうとしている。こんな僕をみて、あの人もどこかで笑っているのだろうか? あきれているだろうか? 僕はかわりに生きると誓ったくせに。
なぐさめてくれているような気もする。生前、僕をけなしたことはなかった人のことだから、歯がゆい思いをしながらも励ましてくれているような気がする。
僕は、いまでも、例えばそんな感じで、毎日、思い出している。いつも誰かが見ていて、ぼくに励ましの足蹴りをしようとしている気がする。
2009年3月16日
『幸せのちから』(The Pursuit of Happyness)は2006年のアメリカ映画。事業の失敗によりホームレスになるまで落ちぶれたが、最終的には成功を掴んだ実在の男性、クリス・ガードナーの半生を描いた作品である。主演はウィル・スミス、息子役には彼の実の息子であるジェイデン・スミスが配役され、親子共演となった。
間違えられやすいが、原題の「ハピネス」は正式な綴りのHappinessではなく、Happynessである。これは息子の託児所の落書きにあったスペルミスが元となっている[1]。同時にアメリカ独立宣言における「幸福の追求(The
pursuit of happiness)」のもじりとなっている。
第79回アカデミー賞で主人公を演じたウィル・スミスが主演男優賞の候補になっている。
以上Wikipedaより引用。
「幸せの力」をみた。
人生のどん底から成功へと這い上がる話。
そのために、とにかくこのお父さんはミシンのような機械をもって全力疾走で街を走りまくっている。
走るたびに 不幸をつかんだり 幸運をつかんでいる。
子どもがモーテルに入れず泣いているシーンなどいろいろ窮地がちりばめられているが、この映画の最たる不幸は、人形を落とした子どもを無視して父親がバスにかけこんだところだと、僕は思った。
多分、見るひとによって違うかもしれない。そこがこの映画のみどころのひとつだと思う。
歩いていたらビジネスマンは生きていけない。家族を養えない。
「幸せの力」より「必死」という題のほうが似合いそうな映画だった。
生意気な感想でした。
2009年3月15日
よく使われる人形、Annとう名前があり、十四歳の女の子である。じつはこの子は実在した人物らしい。川で溺れてなくなったのだが、親が玩具屋で、救護を広げようと当この人形の原型をつくったのだという。
ぼんやり救護の成功した実例ビデオをみていたら、ふと祖父が 意識を失ったときの光景が蘇ってきた。
僕は小学生だったが、あのとき……
……ソファーにすわっていた祖父はけいれんして、呼吸ができないでいるようだった。
救急車を呼ぶことを母と祖母はためらっていたように思う。
その直後から記憶がない。救急車がきたのか、車で運ばれなのかも覚えていない。
僕のなかの意識があった祖父は、それが最後であり、その後一年間、意識はもどらず、病院で亡くなった。
ある春の日、僕は母と見舞いにいった。その日、苦しそうに呼吸する祖父の手を、母が僕にしばらくのあいだ握らせた。その夜、祖父は亡くなった。
思いだす。
僕は「じいじ」が好きだった反面で、嫌悪していた。体が思うように動かず、いつもけいれんしていて、涎をたらすのがたまらなく嫌だった。涎は拭いてあげたりもしたけれど、汚くて嫌だなと思っていた。
兄と体の動かない祖父を運ぶとき、僕は力がなくて運べず、嫌な顔をしたりした。
祖父は僕を可愛がってくれた。なのに、なんと非情な孫だったろう。
そんな非情な小学生はやがて高校生になった。ある夏のこと。
僕は当時、学校についていけずノイローゼになっていて、それを解決するためには「生きる意味」のようなもの(そんな客観的な唯一のものがあると信じていた)を見いだすべきだという結論に達したことがあった。
そこで自発的に老人ホームにいって介護を手伝ったりした。が、トイレに一緒に入って、排便の介助をしていたとき、笑顔とは裏腹に、今の僕の行為は偽善なのだと思い、ますます病んでいった。
もしも自分が、そんな心をもった子どもをみたとする。それを直そうとするのだろうか?
教師は矛盾に満ちた職業なのか?
道路交通法上、僕はふさわしくない薬を大量に飲んでいるので眠く、教習所にいる待ち時間は畳の部屋にいて、いびきをかいて寝ている。寝ているのに自分のいびきが聞こえるのだから少し異常かもしれない。
そんな吹雪と眠気のなか、路上教習が行われた。
かつて、今日のような天気のなかスクーターで能登半島をまわったことがある。一キロすすむごとに停車して顔と手の感覚を温めないと麻痺して動けなかった。無謀の極みである。(それでも郵便配達のカブは走っていた)
それに比べいまは、車の中である。屋根がついている。滑りやすいというが、4輪は2輪に比べようもない安定性がある。だいたい滑るだけでは、4輪はひっくり返らないし、自分も吹っ飛ばない。
もちろん重大な事故をおこせば原付は多くの場合自分が死ぬだけだが、車は相手も死なせることになるので、油断はできないのだが。
ともあれ、この日中のひどい眠気、なんとかしないと。
2009年3月13日
きのうがあったのは紛れもない事実。
今日があるのも間違いのないこと。
では、あしたは?
歴史には「もし」はない。それは過去のことだから。
未来には「もし」がある。もし、いま、ホテルが火災になったら。もし、いま、僕が心臓発作を起こしたら。
可能性は限りなく0にちかいが、0ではない。
そんな日々を繰り返しているうち、いつか可能性は100に限りなく近づく日がくる。誰にも。
ふと思った。免許合宿中は、人生のうちでもっとも平穏な時なんじゃないかと。うまく説明できない。なんていうか、安全に車を使えるように免許を取ることは、もちろん人命に関わる大切なことだが、なんていえばいいんだろう?
どうでもよいのだ。
僕は今後、多少の不自由を我慢すれば車を運転しないで生きていくことも考えられる。いいか悪いか別として誰かに運転さればいいのである。
目的があるようでないこんな毎日は、なんだか、生きた心地がしない。
だから日記まがいのことをこうして書いて残そうとしている?生きている証を?足跡を?
もし残ったとしても、それは僕としてはつまらない痕跡だ。
これをみてくださって人もいるというのに!なんていうこと!をいいます。
いまこのブログをみている人がいたらすぐパソコンの電源を切って、そうしてもし自分の命が、あともって3日だと仮定して、いま何をすべきか考えて下さい。そして行動にうつしてください。
月夜のみみずくだったらどうするかって?
僕はとりあえず、部屋を少しかたずけて、そうだな、歯をみがいて…あとは……
「……とくにやることもないよ!戒名でも考える?」
いつでもそういえるくらい普通の生活を悔いなく送れるようにしたいと思う。生んでくれた両親に対しての感謝や、これまで僕を支えてくれた兄弟や人たちへの礼も尽くして。
なにをいってるんだか。僕は多分、来年も、いまとたいして変わらずに、ずぶとく生きているだろう。
それは別にそこまで嫌なことでもないのだけれど……
なんとも薄気味悪いはなしである。
最近、ホテルに帰って、風呂にはいっていたところ、左の乳首がおかしいことに気がついた……
か、かたい……
性別は男である。
おりしもいま「僕の生きる道」というドラマをみて、ガンで余命宣告をされた話をみたばかりであった。
乳がん……
明らかにかたく、それもかなり固い腫瘍がある。
……僕は、癌かもしれぬ。
思えば長いようで短い人生だった。それなりに 、生きてはきた。しかし癌だとは。思いもしなかった。
教習のあいまをみて、すぐさま病院へいかねばならぬ。
かおの知らぬ皆さんにお別れを告げる日は近いかもしれない。
2009年3月10日
◆一人補講を受けることに。先ほど僕に不合格を下した教官が当たる。
教官「いやあ、(きみの運転のまずさは)教官の教え方が悪いんだよ」
み「そうですねー」
教官「そこは否定しなよ」
み「……」
◆五分後……
教官「ほらいまの左カーブもさ…教官の教えかたがまずい」
み「いえいえ!とんでもない!そんなことはないっす!」
教官「……」
◆発着点に戻り……
教官「あ、いまのキーの切り方、上達していない」
み「いやいや、まえは頭でクラクション鳴らして停止した人間ですから。上達はしていると思います」
◆終了時……
み「いやあ、先生の補講をうけて実に良かった。試験に落ちて、むしろ僕はラッキーでした」
教官「教習所としては損失なんだがね」
◆別の意味で、上達。
試験会場にて
教官「はい、じゃあ、みみずく君以外の人は残ってね」
みみずく「は?僕だけ合格ですか? いやーまいったな!……ははは……」
……卓越した運転技術のため、修検、一人だけ落ちました。一人だけ……。他のみんなは、パスした。
僕のつぎにのった女の子は、僕と対象的だと誉められ、後部座席でどんよりしている僕をしりめに、めちゃくちゃ喜んでいた。
(そうさ、いまのうちに喜んでいればいいさ)
腹黒いみみずく。
2日のび、卒寮式にいけない。そしてもう一回だめになると、卒業式にもいけない。あとがない。やっちまったなー
教習にだいぶ疲れ、ホテルに早く帰り、夜まで寝た。明日は合宿の折り返し、修検と仮免試験がある。学科はすでに2日から毎日合格点をキープしているので、いまさらやる気は起きない。油断しているというより、別に一回くらい落ちてもいいやという気持ち。技能のほうは、一人で練習できないので、あとは試験の際の運だと思っている。なんとも考えの甘い教習生ではあるが、なにごとも心に余裕をもたせることのほうがいまの僕にとって一番大切なことなのである。
神奈川県から臨時任用の電話(4月からの仕事)が上旬にくるということだったので、教習ちゅういつも気にしていたが、いっこうにくる気配がない。最短で18日に合宿が終わり、秋田から長野へ帰る途中、神奈川で住居を決めないと、引っ越しがきつくなる。いまの時点で来月からの生活が定まらないのは、やや不安でもあるが、わからないのは仕方ない。だからこの期間、教習をいれたのはあながち間違っていないのではと思った。気を紛らわせるにはちょうどいい。
2009年3月7日
なにごとも半ばというものは疲れがでるもの……
早くも教習に飽きはじめたみみずく。ホテルで勉強する気もなく、ウクレレをひいている。
だいたい都会に戻るのに、マイカーの必要性などないんだ。個人的に、必要だと思ったことはない。単純に考えて、みんなが公共交通機関を使えばたいていのところは行けるし、利用者が増えればその分安くなり、路線も増えるはずなのである。
携帯電話もしかり、周りが持つから持たなければいけないようになる。もちろん持たないという選択肢を選ぶ信念をもつ人もいる。
じゃ、なんでいまここにいるの?
あーあしたは無線走行だ。寝よう。
2009年3月6日
2009年3月5日
教習所2日目。
東北なまりのある1コマ50分の授業は、教官のなまりにばかり注意がいってしまう。イントネーションが独特で、ずっと聞いていると、それはもうどこか別の国の言葉のように思えてくる。
方言を隠す人がいるが、僕はむしろ自分の国の言葉をもたないことが、なんだかマイナスのことのように思う。長野は北は北海道、南は沖縄から学生が集まっているので、そういう仲間と話すとき、特にそう思う。いつしか僕の話す言葉に、どこの国の方言がまざるようになってしまった。
でも、なんだかあったかいんだよね。方言って……
さて、教習について。
2日目にいきなり学科のテストがあった。しかも一問不足で不合格だった。先が思いやられるといえばそうかもしれないが、まだ2日目。
車に乗れることも楽しいけれど、新しい人たちの話を聞くこともすごく新鮮で、すでに残りの教習の日数を数えて淋しくなっている。まだ2日目だというのに……
人間はたまたま出会い、そしてほんの少しの時間を一緒にすごし、そして時に自分が気がつかぬまま別れを告げる。今日あったら、明日は会えないかもしれない。大げさかもしれないけれど、僕はそう思って人と接したい。
2009年3月4日
松屋にて。東北訛りのおじさんが店員にからんでいた。
爺:「お嬢さん、ここは賞味期限とか大丈夫ぅ?」
店員:「大丈夫ですよ。問題なっちゃいますからね」
爺:備えつけの紅しょうがの蓋をとり、「これでたべでいぃの?」
みみずく:「それは盛って食べるものじゃないですか?」
爺:「いゃーまいっだまいっだ、これ、ぜんぶだべでいぃの?」
みみずく:「それはいいと思います」
……「まいっだまいっだ」といいながら、おじさんは焼き魚定食を注文していた。
岩手は二回目。むかし中学生のとき、ひとりで来たことがあったっけ。
2009年3月1日
28日、29日、1日と三日連続でゼミに参加。毎日長野と松本の往復した。僕にとって4年間の最後の日となった今日は、乗鞍高原でスノーシューの企画があったが、ここ数日の暖かさで雪が溶けてしまい、中止になってしまった。 代案がなかったので、諏訪のガラス美術館とイチゴ農園を訪れ、のんびりとした一日を過ごすことになった。
このゼミで言う「企画」とは自然活動全般を指し、一年生がおよそ1ヶ月の時間をかけ、下見やミーティングをかさね作りあげていくもので、週一回の授業とあわせこのゼミの柱となる活動だ。一つの企画を立てるのは、ここでは語りつくせないほどの労力がかかる。簡単に言えば、主体的な活動を通じて、一年生は自然活動の知識を会得し、段取り力やコミュニケーション力を身につけていく。自然活動はじつはそのための手段であり、大きな目的はそこにおかれている。
さっき、そんなゼミの同期の一人が、アメリカに旅立つのを長野駅まで送ってきた。
3月は別れの季節。一人また一人と、この長野から、新しい世界へ飛び立っていく。
僕はというと転居先と仕事が決まらないため、ぎりぎりまで長野に残り、最後にいなくなると思う。このブログも、それでひとまず終わりにしたい。一つの大きな節目であることは、間違いないのだから。