明日提出の近代文学購読のレポート・・・
さっき食堂へいって一休み。あ、同じ講義を受講してるUさんだ。
月夜のみみずく:「近代文学、終わった? 『破戒』・・・」
Uさん:「破戒じゃなく和解だよ、なにいってんの?」
月夜のみみずく:「は? 破戒じゃないの?」
しばし沈黙のときが流れた・・・・・・
僕が読んだのは
×島崎藤村 『破戒』
ほんとの課題は
○志賀直哉 『和解』
まぎらわしいねん!!! お、おわった。なんという勘違い。朝までに間に合うはずもない・・・
『破戒』のままでいこう。冗談で通じるかもしれない・・・
THE END 僕は単位を落とすかもしれません。
今宵も月夜に導かれ、
あっちの止まり木へふわり、こっちの止まり木にふわり。
いったいどこへ行き着くのやら。
そんな「月夜のみみずく」の自分のための備忘録
2007年7月30日
2007年7月29日
昨日は一週間後にせまった
「サマーキャンプ in KISOGAWA 」
の下見のため、木祖村へ行ってきました。
当日名古屋と木祖村の子たちが歩く源流の天然林を、一日かけて歩き、あとは本番を待つばかり。
今年で、この子どもキャンプのリーダーを勤めるのも3年目だ。 ガタくんという、やたら虫に詳しい1年生と同じ班を持つことになっています。班員も15人と増えたので、ちょいと不安ですが、2人でうまく協力していけたらと思ってます。
経験は他のリーダーさんより多いかもしれませんが、
初心に立ち返って、頑張ってきます!
・・・・・・インストラクターの資格もとったしね・・・・・・・
← 写真はガタが発見した
「エゾゼミ」
2007年7月25日
雨がふってきたとおもったら、大きなカミキリムシが、部屋の明かりをみつけ、隙間から入ってきた。追い出すこともせず、さりとて安心していられない。ぼけーっと考えている、こんな晩は・・・・・・
・・・・・・やる気がでんのだよ。今日は試験前の一番大事な講義もさぼって、寮で寝ていた。勉強も手につかん。ただ無為に寝るか、食うか、飲むかしている。家庭教師のほうも教えている子が佐渡へ帰ったため、ご無沙汰だ。これはいけない。廃人への道だ。分かれ道に入ってしまったのはどれくらい前だっけ?
目標を見失ったか? だからこんなに怠惰な毎日を送っているんだろう。
昔思い描いていた夢を思い出してみよう・・・
幼稚園の頃、将来の夢は? ときかれた。すかさず僕は「パンダになる!」と答えた。先生は微笑んだ。親はこのことを知ったか知らんが、以来兄ほど弟に期待しなくなった。この夢はいまだ叶っていない。友達は「警察官」だとか「花屋さん」とかまともな回答を出していた。所詮、この年代の夢は夢で終わるのである。あの友達は、間違いなく花屋さんになっていない。
小学校の頃、僕は何になりたかったんだろうか。忘れてしまった。高学年になると、童話や漫画やらを書くのに没頭していた。小説家になりたかったのかもしれない。
中学校の頃、僕はいっぱしにものを考え、その結果「樹木医」になりたいと思った。人間相手は苦手だから、自然を直してあげたいと思ったんだろうか。
高校時代、夢は他分野に広がる。
あるときは林業につきたいと思った。あるときは詐欺師、あるときは手品師、あるときは旅行会社、あるときは手話通訳士……新聞記者はいまでもちょっとあこがれる。僕は廃部寸前の新聞部の部員で、校内を飛び回っていた。原稿が遅れ、桜木町の印刷所には迷惑かけたよな。
カウンセラーか臨床心理士になりたかった時期が一番長かった。思い出すのは、深夜、ラジオで諸富氏の「生きがい発見の心理学」というのを聴いて、衝撃をうけ、録音して毎日聞いていた。本も、やたら読んでいた。環境に甘んじて、大学もその方面で進めたら、と思っていた。
いよいよ志望校を絞らなくてはならなくなったとき、僕は教育学部を選んだ。教師にはなりたくないと思っていたのに……なぜだろう? これだけはっきりとしない。直感? みたいなものがある日あって、それからは迷いがなかった。
高校3年の3学期、僕は学校に行かなくなった。不登校ではない。大学に早くから受かってしまって、さりとて勉強するのもいまさら馬鹿らしい、ということで毎日、横浜元町にある染物関連の作業所で働いていたのである。ここは障害を持つ人たちが、一般就労できる日を待つ、止まり木のようなところだった。作業所といっても、すごく温かみのある場所で、僕はすっかりここに溶け込んでしまった。そこに在職していた人やボランティアの方とはいまも連絡をとっている。
こんなしょうもない日をおくった晩などは、いまでも帰りたくなってしまう、そんな場所だった。
あーあ……試験すっぽかして、いっそ帰っちゃおうか? それはやっぱりできない。
2007年7月24日
あゝ、穢多の子といふ辛い自覚の味を知らなかつた頃―――思へば一昔―――其頃と今とは全く世を隔てたかの心地がする。丑松はまた、あの長野の師範校で勉強した時代のことを憶出した。
未だ世の中を知らなかつたところからして、疑ひもせず、疑はれもせず、ひとと自分とを同じやうに考へて、笑つたり騒いだりしたことを憶出した。あの寄宿舎の楽しい窓を憶出した。舎監の赤い髭を憶出した。食堂の麦飯の香を憶出した。よく阿弥陀のくじに当つて、買ひに行つた門前の菓子屋の婆さんの顔を憶出した。夜の休息を知らせる鐘が鳴り渡つて、やがて見廻りに来る舎監の靴の音が遠く廊下に響くといふ頃は、沈まりかへつて居た朋輩が復また起出して、暗い寝室の内で雑談に耽つたことを憶出した。
終には往生寺の山の上に登つて、苅萱の墓の畔に立ち乍ら、大な声を出して呼び叫んだ時代のことを憶出して見ると――実に一生の光景は変りはてた。楽しい過去の追憶は今のかなしみを二重にして感じさせる。
『あゝ、あゝ、どうして俺はこんなに猜疑深くなつたらう。』
斯う天を仰いで歎息した。急に、意外なところに起る綿のやうな雲を見つけて、しばらく丑松はそれを眺め乍ら考へて居たが、思はず知らず疲労が出て、『藁によ』によりかゝつたまゝ寝て了つた。
(『破戒』より 瀬川丑松が昔を思い出す場面)
日暮れ時ようやく目覚め、男子棟の屋上にのぼり、ここ「妻科」の昔をしのんでみる。
「門前」とはいうまでもなく善光寺界隈のことをさし、「往生寺」というのは、僕はまだいったことがないが、善光寺の西、教育学部の裏手の山にある古刹である。
「寄宿舎」とはこの寮の前身のことであろうか。先日、この寮を生まれた頃から知っている職員さんにきいたところ、昔は隣接するの商業高校の敷地まで広がっていて、木造校舎の寮の隣には大学の職員の官舎も建っていたということである。寮生の数も、今とは比較にならないほど多く、賑やかであったらしい。
2007年7月23日
主人公の瀬川丑松は被差別部落出身の小学校の教員。モデルは、長野師範をでた実在の人物だったというから、つまるところ信大教育学部の出身ということになる。
長野に来て、教育学部学部に入って、なぜ僕は今日までこの作品を読む機会を逸していたのだろう??
試験とレポートをわき目に、部屋にこもって読み始めてしまった。最良にして最悪のタイミング……朝までに読み終わるだろうか??
2007年7月20日
午前、徒歩5分の場所にある大学のプールに、実習先の子たちが来るというので、応援しに行きました。新潟の地震で、谷浜での遠泳会が中止になってしまい、急遽大学でやることになったようです。
3グループに分かれて、「えーんやこーら」の掛け声にあわせて、15分ほど泳ぎ続けます。
僕は小学生のころ泳げなかったので、途中であしをついてしまう子へむけて、声が枯れるほど応援してしまいました。1学期の練習の成果を出し切った子どもたちはの表情は晴れやか。
「動きを合わせて 心を合わせて 仲間と築く エンヤコラ」
・・・・・・プールサイドには、6年の実習生たちで作って届けた巨大な横断幕も(太陽は僕が描きました)。 大海原ではなく、地元のプールでのお披露目?となってしまいましたが、はたして思いは届いたのでしょうか・・・
最初はどうして信大で? と思ってましたが、そこには中止にはなったけれど、せめていつもとは違う場所で、鍛錬会をやろうという、先生方の配慮があったようです。
2007年7月18日
夕方、事務室でぷらぷら遊んでいたら、来客。
血液センターのおじさん:
「AB型の血液が足りないんです、放送かけてもらえませんかねえ」
月夜のみみずく:
「はい・・・(ガチャ)・・・えー、AB型の人は事務室までお越しください。血液センターの方が来ています。そのまま車で連れてってくれるそうです。」
血液センターのおじさん:
「じゃ、ちょっと待たせてください」
月夜のみみずく:
「あ、はい。 (車で連れてってくれる? 大丈夫かな・・・)」
疑っちゃいけないのだろうけれど
・・・ちょっと心配になってしまう、そんな世の中。
公民科のゼミで、平等権についての教材研究の発表があった。そのなかで「差別」が話題にのぼった。外国人差別、民族差別、同和問題、障害を抱える人や病気を持つ人への差別・・・これらを「道徳」ではなく、「社会科」の授業で扱うとなると、どこに着眼すればいいのだろうか。
あるいは次のようなことは差別に当たるのだろうか。
・女子校、男子校があること。
・盲導犬を許可し、ペットの連れ込みは禁止すること
・男性ないしは女性のみのテニスクラブ
・男性限定のバス運転手募集・・・
差別の境界線は考えれば考えるほど、分からなくなる。先生はそれを考えることが「道徳」とは異なる「社会科」の視点なのだとおっしゃっていた。
それはさておきだ。 じつは、大学生のなかでも、特定の人に対して差別やいじめのようなものがある。 最近僕は、集団がある人の陰口を言って、じつに楽しそうにしているのを見た。本人が聞こえているのを知って、廊下で聞こえよがしに「空気が読めない」などと悪口を言ったりして喜んでいる。
この人たちが将来、教員になる。
子どもたちに接することになる。
いじめに直面することになる。
俄然、教員志望であることを疑わない人たちだ。 正直に告白すれば、目を疑ってしまう。・・・・・・もちろん僕自身、自分の生活や行いを改めて見直すと、その欺瞞に嫌気が差すことがある。だから人を、しかも匿名のブログという場で、忠告するまえに自分を律しないといけないのだろう。
でも・・・・・・
特定の人を貶めて、自分たちの連帯を強めようと働くのは、古来から変わらぬ人間の本能かもしれない。けれどもそれを理性でもって自制するのが人間でもあるだろう? 教養のある人たちが・・・そうじゃないのか? 批判ばかりが出そうになる。
そんななか、ついに今日、その槍玉にあがっている人物について「おまえはどう思う」ときかれた。ようは加担するように求められた訳だ。
拒絶すれば自分が危険。
でもそれを許すことは、加担することになってしまう。
そこで僕がしたのは・・・・・・中立の立場をとって逃げるということだった。処世の知恵がついてしまった自分が恨めしい。
いま、学校での深刻ないじめが社会問題化している。自分自身、小学生のとき、人をいじめた経験があるし、いじめられた経験もある。いじめられたときも、いじめたときも、深い心の傷が残ったので、この歳になって、絶対にしないと心に誓っている。 ただ、今日、中立とはいえ、「逃げた」自分のことである。僕はこのままだと、教師になって、子どもを守ることができないかもしれない。
・・・・・・今日は本当に悔しい思いをした。
・・・・・・人と自分の嫌な部分を見てしまった。
2007年7月17日
今日は信濃大町にある山村留学施設に見学に行きました。
小学生から中学生まで、30人の子どもたちと地元の山に登ります。
ここには神奈川や東京、埼玉といった首都圏からきた子どもたちが、数年間親元を離れ、村の農家と施設で暮らしています。
登山中、新潟で大きな地震があったという報せを聞き、心配しましたが、僕の住む長野市は揺れも小さく、無事でした。寮の一回の壁にひびが入ったようですが・・・
ただ、すぐ近くの飯綱ではかなり揺れたようなので心配です。
前日の夜中、鳥が騒いでいたので、もしやと思っていましたが、まさか本当に地震が来るとは。
2007年7月14日
2007年7月11日
夕方寝て、立て続けに悪夢をみる。乗ってる電車が暴走したり、刺されたり、授業に失敗したり、京都大学の院にはいろうとしたが英語ができなかったり、スイカが壁から生えてきたり・・・・・・なんだか僕、精神的に追い詰められてるよ。
夢から覚めて、ああそうだ。今晩は寮費2ヶ月分を集める日だった。
部屋へ戻って集めた300枚近いお札を数える。
115、116、117と・・・
月夜のみみずく:「足りない・・・ぴったり1万円・・・どこへ消えた?」
探す探す。必死の形相。足りない。
あった。封筒に1枚入ってた。・・・・・・夢でなくてよかった。
2007年7月9日
2007年7月8日
なんのために、いままで学び、経験してきたんだ? わからない。
最後の日の下校時に、あまりに混乱していた僕に、担任の先生がこんなことを僕に言ってくださった。
とにかく、休もっ。そして驕りをすて、謙虚になって、初心に立ち返ろう。
僕のほうはといえば、ため息ばっかりして。足元ばかりみて。おまけに道に迷ったりして。
・・・・・・ああ・・・・・・いまどきの観光客は犬を連れて歩くのか。
2007年7月2日
サマキャンの保護者説明会で名古屋・木祖村からへんへなになって帰ってきて、今日は実習初日。
六年生のクラスです。とにかく初日から失敗の連続。夜からやらなきゃいけないことも山積・・・
でも、すごくやさしそうな担任で、心配だったグループもなんとかうまく行きそうな気がする。
早く40人の名前も覚えないと・・・大学生活でもっとも忙しい一週間がはじまった。
『副校長講話の感想』
一番印象的だったのは、副校長先生が「安心して学べ、自分を輝かせられる授業づくりをするには?」という質問を投げかけられたときのことです。「一人一人の意見を尊重する」「どんな小さなつぶやきも拾える人」・・・指名される教生は、次々に「なるほど」と思える意見を述べていました。・・・・・・そして三人目あたりで、ある教生が指名され、彼も皆と同じように発言しました。このときです。「聞こえない、もう一度」、つづいて「じゃ、次の人」と副校長先生がおっしゃられたとき、私は半ば無意識に冷たいものも感じたものの、緊張もあって、そのまま深く考えることもなく流してしまいました。
ところが直後に先生は、その教生に謝られ、それが意図的にやったものだということがわかりました。実際の場面で、実習生が子どもたちの意見を聴くときに、やってしまいがちな行為を、講話の中で示されたのです。
思えば、私自身、小学校から大学にいたるまで、幾たびこのヒヤッとした、裏切られたような思いをしてきたことか。自分の必死になって言葉にしたものが、いい加減に「聞かれる」ことの痛みに慣れすぎて、鈍感になっていたことに気づかされました。自分では気づかなくとも、そして、たとえ悪意がなくとも、何気ない教師の言葉やしぐさが見えない暴力となり、子どもを少しずつ、そしてまた深く傷つけてしまう恐ろしい事実を認識させられました。
私は、大学のゼミでよく建前だけの理想論を言ってしまう自分が嫌いです。そしてそれを言う人もまた疑ってしまいます。なので「講話」というだけで、正直に白状すると身構えていました。ひねくれた自分です。けれども、このように実感を伴って考えさせられるお話は、身にしみて反省させられました。
「子どもの意見を“聴く”ことは、とても難しいこと」
今朝の講話で、私が心に刻み込んだことです。
これから指導案を作って授業をするにあたって、よく「教生の授業は失敗して当たり前」と慰められます。そうかもしれません。しかし、ときに、それが小さいながら、積み重ねれば取り返しのつかないものになることもあるのです・・・それが、実習生といえど、生身の子どもたち関わる際に生じる責任なのだと思いました。