サマキャンの保護者説明会で名古屋・木祖村からへんへなになって帰ってきて、今日は実習初日。
六年生のクラスです。とにかく初日から失敗の連続。夜からやらなきゃいけないことも山積・・・
でも、すごくやさしそうな担任で、心配だったグループもなんとかうまく行きそうな気がする。
早く40人の名前も覚えないと・・・大学生活でもっとも忙しい一週間がはじまった。
『副校長講話の感想』
一番印象的だったのは、副校長先生が「安心して学べ、自分を輝かせられる授業づくりをするには?」という質問を投げかけられたときのことです。「一人一人の意見を尊重する」「どんな小さなつぶやきも拾える人」・・・指名される教生は、次々に「なるほど」と思える意見を述べていました。・・・・・・そして三人目あたりで、ある教生が指名され、彼も皆と同じように発言しました。このときです。「聞こえない、もう一度」、つづいて「じゃ、次の人」と副校長先生がおっしゃられたとき、私は半ば無意識に冷たいものも感じたものの、緊張もあって、そのまま深く考えることもなく流してしまいました。
ところが直後に先生は、その教生に謝られ、それが意図的にやったものだということがわかりました。実際の場面で、実習生が子どもたちの意見を聴くときに、やってしまいがちな行為を、講話の中で示されたのです。
思えば、私自身、小学校から大学にいたるまで、幾たびこのヒヤッとした、裏切られたような思いをしてきたことか。自分の必死になって言葉にしたものが、いい加減に「聞かれる」ことの痛みに慣れすぎて、鈍感になっていたことに気づかされました。自分では気づかなくとも、そして、たとえ悪意がなくとも、何気ない教師の言葉やしぐさが見えない暴力となり、子どもを少しずつ、そしてまた深く傷つけてしまう恐ろしい事実を認識させられました。
私は、大学のゼミでよく建前だけの理想論を言ってしまう自分が嫌いです。そしてそれを言う人もまた疑ってしまいます。なので「講話」というだけで、正直に白状すると身構えていました。ひねくれた自分です。けれども、このように実感を伴って考えさせられるお話は、身にしみて反省させられました。
「子どもの意見を“聴く”ことは、とても難しいこと」
今朝の講話で、私が心に刻み込んだことです。
これから指導案を作って授業をするにあたって、よく「教生の授業は失敗して当たり前」と慰められます。そうかもしれません。しかし、ときに、それが小さいながら、積み重ねれば取り返しのつかないものになることもあるのです・・・それが、実習生といえど、生身の子どもたち関わる際に生じる責任なのだと思いました。
今宵も月夜に導かれ、
あっちの止まり木へふわり、こっちの止まり木にふわり。
いったいどこへ行き着くのやら。
そんな「月夜のみみずく」の自分のための備忘録
2007年7月2日
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