今宵も月夜に導かれ、
あっちの止まり木へふわり、こっちの止まり木にふわり。
いったいどこへ行き着くのやら。
そんな「月夜のみみずく」の自分のための備忘録
僕のよく知っている大学の教官が先週、問題を起こし、辞職した。
そのニュースを先週末、松本行きのバスのなかで聞いた。
名前を聞いて鼓動が高くなった。
新聞報道や、ネット、学生間の噂など、さまざまな情報が飛び交っている。どれが真実かどうかは誰にも分からない。
今日の夕方、その件で、集まりがあり、そこで嗚咽して泣く友だちを見た。
真実は当事者にしかわからない。少なくとも、その教官が、黒か白であるかという単純な問題ではないことは確かだ。冷静に判断したくても、確かな情報がない限り、どうすることもできない。
ただただ、この先の進展を見守るばかりだ。 自分のこと以外で泣いたのは、いつぶりのことだったろう。
夜。家庭教師。家に着くと、その子はおばあちゃんと口争いをして、いらいらしていて、泣きそうだった。
どうしよう・・・・・・
「今日は勉強しても見に入らないし、止めようか」と僕はいった。
その子は、うん、とうなずいた。
「僕は中学生のときね、理由もなく、家族がうとましかったことがあったよ。いまはね、そんなことはないんだけど」
そんな話をしていると落ち着いてきた。一緒に英語の宿題をやり始める。
「僕は来週から実習で6年生のクラスに入るんだけど・・・」、とこの前まで6年生だったその子に話しかけた。いつも疲れているのか口数が少ないその子はめずらしく、僕にいろいろ教えてくれた。
もし僕の家庭教師が理由で泣いていたのならごめんね。やっぱり負担なのかな?
帰り際、お母さんが「毎日娘とのバトルです」といって笑って見送ってくれた。
もうじき7月だ・・・・・・・
2007年6月25日
長野県キャンプ協会主催
キャンプインストラクター養成講座
2泊3日の行程を終え、無事、試験パス!
受講者は、8名。(実はみんな知り合い)
もちろん、この肩書きを持っているから何かができる、というわけではないけれど、この合宿で数え切れない経験をした。

さまざまな状況での「子ども」目線のリスクを考えたり、理想の指導者とはなにかを考えたり。実技もテントの貼り方からホワイトガソリンランタンの扱いまで幅広い。特に旧式の取り扱いが難しい。

夕食は王道のカレー。ただしバナナを使った創作料理つき。バナナ餃子、バナナクレープ、バナナ餡蜜、バナナお好み焼き。短時間でアイディアを出し、そしてカタチにすることの難しさ。楽しさ。

キャンプファイアーを立案。お題は「いままで見たことのないキャンプファイアー」 限られた時間の中、全員でプログラムを考えていくのは至難の業。本番は「恥」をすてて、演技をしたり、踊ったり。自分の殻を破るためには相当の覚悟がいる。
最終日。「テストするぞ~
※カンニング厳禁」
ん? 「ミニマムリスク?」「リーブノートレース?」・・・え? この時点で初耳の用語満載・・・大丈夫かいな。
キャンプのスキルを知っただけでなく、なによりも現時点での「自分の能力」と今後の課題を知ることができたと思う。
2007年6月22日
夕方から、三日間のあいだ、電波の入らない山に入ります。
長野県キャンプ協会の養成講座で「キャンプ指導員」という資格を取ってきます。
・・・・こんなインドアな僕でも試験通るんかな?(笑)
せめてキャンプの似合うおっさんになってこよーか?(爆)
2007年6月20日
近代文学講読の課題、森鴎外の『青年』を読む。 (余談)鴎外といえば高一の夏休み、一人で何日もかけて山口の津和野にいったことを思い出す。知る人ぞしる夜行臨時列車「ムーンライト八重垣」に乗ったんだった。 京都発、出雲ゆき。 隣に座ったのが若い女の人でなくて(笑)、中年のおっさんだったから当時の僕はがっかりしたのをはっきりと覚えている。そのかわり隣り合わせのおっさんと妙に意気投合。 朝日の差す列車の中で、そのおっさんから友情の証としてもらったカレーパンに食あたりし、腹痛と嘔吐に悩まされたのが、そう、津和野ユースホステルでの夜だった。 カエルの声と階下の大学生くらいの男女の、明るい談笑が聞こえるなか、便器に顔突っ込んで「おえー」・・・・死にたいくらい孤独な夜だった・・・・・・・ ↑ (こう書くと笑われるかもしれんけどね、ほんとに泣きたいくらい寂しかったんだよ~! 男子校のそれも、思春期、といえば聞こえはいいが、実際のところのまだ子どもが、年賀状配達で稼いだわずかな資金で、一人で旅している、それも初めて訪れた地で、激しい吐き気をこらえている夜のあの心境、分かります? 「人は一人で生まれ、一人で死んでゆくもの」 結局はそういうことなんだってことに気づいたよ。16歳だった。)。
口語体で書いてあるので読みやすいが、なにしろ文学青年の話なので、途中からさっぱりわからない。
仮に、何年か浪人して、毎日図書館にでも通っていたのなら、あるいは読めたかもしれない。だが、今の僕にとって文学とは、生活とは縁のない、不可解な世界でしかない。
おっさんは確か奈良の人で、訳ありの人であった。行き先は僕の目的地より遠い「福岡」。結婚していないが、「愛する人」に会いに行くのだ、といっていた。
(ああ、思い出した・・・・・・深夜一時ごろ、岡山駅で数十分の停車時間があり、そのおっさんと下車しビールを買いにいったりした。駅に戻ると入り口のシャッターが閉まっていたりして、あわてたっけ)
ともあれ、津和野にきた翌日、吐き気をこらえ、ぼくは自転車を借り、津和野市街にある鴎外の生家にいった。そこで、鴎外の「遺書」(作品ではなく文字通りの遺書)の模造品を購った。
文学的関心というより、友人への土産話として。
・・・課題は主人公の小泉青年はなぜ小説を書くことを断念したかということである。まだ全部読んで いないのでなんともいえない。それより、忘れかけていたことを思い出させてくれた。
2007年6月18日
入院している友だちがいる。病院だから届かないかもしれないなと思いつつ、メールをしてみる。大学の講義からのちょっとした連絡事項があったから。 そのあと浅い眠りにおち、日づけが変わっていま目が覚めた。我ながら最近寝すぎだ。夢を見る。
それとなく、様子を聞いてみると、外出も許可され、だいぶ落ち着いているとのこと。いままでは外出できなかったのだろうか? 短い文面からは分からないけれど、落ち着いている感じは伝わってきた。実習の一週間目が終わったら、だれか誘って、お見舞いにいこうかと思う。
僕は教室の窓側に立ち、なにか子どもたちと一生懸命やり取りしている。阪神大震災から復興した街を紹介するビデオなどを見たあとだった。
帰宅すると、なぜか私の父親がいた。父親はパソコンに向き、文字どうり、僕は父の背中を見ている。父は今日のクラスの答案らしきものに朱を入れている。僕はいくつか質問する。それとまだ初日なので、子どもの名前が分からず、クラスの座席表が欲しいと頼もうと思ったが、怒られるような気がして言わなかった。
・・・・・つまり僕の父親の受け持つ小学校のクラスで教育実習が始まったらしい。おそるべきことに指導教官が父親なのである。
僕は実家に帰っても、父とはほとんど話さない。父は教員だが、現場で働いているところは見たことがないし、愚息が教育学部にはいっったときも、何も言われなかった。まして自分の学校や教育について語るなんてことはなかった。
したがって、中高時代、僕は教師にだけはなりたくないと思っていたものだ。現在学んでいることを世の中に生かせない教師は生産性がないような気がしていた。それでも、毎晩遅くまで答案やら通知表やらに向かっている父親の背中を見つつ、(軽蔑もしつつ)、高校を卒業して、いつの間にか自分も教師を目指そうとしているのだから不思議な話だ。
まして親父のクラスで実習する夢を見るなんて。余談だが夢の中の父親は僕の知っている現実の父親より、尊敬に値する人のように思われた。
2007年6月13日
四階に潜む一匹を発見。
えいっと気合の一撃、ひらりと身をかわしたゴキ。
月夜のみみずく、まだまだ余裕の表情。
するとゴキ、今度は穂先にへばりつき、必死の反撃の出た。
あろうことか・・・
ぐ、くるなーーー (大汗)
あわてて叩き落とさんとするも、なかなか落ちぬ。
・・・・・・三階へと消えていった。すまぬ、三階の人たち。これで二回目だ。
2007年6月11日
・・・・・・門のコスモスがほら! こんなに成長してるよ。
疲れた顔で寮を出入りする教育実習生に、ほほえみを取り戻してもらうために植えたこの生き物・・・
ありゃ? 4年生の応用教育実習はもう今日からだよ。
月夜のみみずく:「早く咲かないかな・・・ノブキは雑草を育ててるとおもわれる」
「大輪コスモス」という品種で、綿半で140円もしたやつだから、きっとアサガオみたいな大きな花を咲かせるんだろう。いやいや、アサガオといわず、ヒマワリくらいはいくだろう。
月夜のみみずく:(ヒマワリみたいなコスモス! ヒマワリみたいなコスモス! ぶつぶつ・・・)
2007年6月10日
教育実習の関連本を読んだり、指導案のフォームを作ったり、部屋を整理したりするうちに、ふと、昔の日記を書いた紙片を見つけた。
読んでいると、学業や人間関係の不安やら、将来への希望・絶望やら、はてまたラブレターらしき草稿まで出てきたからおったまげたもんだ。人並みに揺れた我が思春期の記録!・・・・・・人間、これほど人に見られて恥ずかしいものはないと思う一方で、「よくぞ残しておいてくれた」と当時の自分に言いたくなる。
恥を忍んで僕が書いた日記を高校生あたりの所から適当に抜粋してみよう・・・このブログの目的は「自己省察」であるから・・・・しかしまあなんと悲観的なことばかり(涙)。
【高1の10月】
▼夕方、化学をちょっぴりやる。おそろしく進まぬ。
▼そういえば数学の試験が返ってくる。おそろしく、否、悲しい得点である。20点。べつにどうということはない。中1のころだったら、ショックで暗々たる心境に陥っていたに違いない。いや、中1でこんなひどい点は取らなかった・・・。
僕は理数系がだめだった。この日の日記はノート3ページも書いてある。よく見ると試験の当日の未明にだ。「べつにどうということはない」と書きつつ、やっぱりくよくよ気にしていたんだろうな。
【高2の6月】
(前略)・・・しかしどれもできそうにない・・・の失敗以来今日に至るまでなーんもやる気がない。勉強もしてない。一日十時間も寝てる。どうにかしないと・・・あせっているだけでもうだめだ。本当にもう助けてくれ。生きがいなんてない。毎日が苦痛である。何もしていないのに。相変わらず人とよく話ができない。人が怖い。もうだめなんだよ。でも“だめ”ではだめなのである。それが心を苦しめる。はたして日本中で自分のように情けない事情でこんなに苦しんでいる阿呆はいるのかな。
2つの部活を掛け持ち、受験も意識し始めたころ。やる気のなさと重圧が比例し、精神的につらい時期だったんだろう。
【高2の1月】
(前略)・・・自分は他人の(家族の)前では普通に見えるが、実は一番狂っている。コーヒーのカフェインとアルコールでもはや脳細胞はかつての半分もないのではないか。ともすると心は重く沈み、何もやる気がなくなり、生きているのさえつらくなるが、死ぬつもりは毛頭ない。ただ何かを待っている。(中略)・・・ただこんな毎日がずっと死ぬまで続くと思うと、もう嫌でたまらない。 自分のことばかり考えていると不幸になる。けれども自分以外の誰のことを思ってあげられるというのだ。受験勉強は百%完全に自分のことである。自分が合格すれば一人が落ちる。自分中心の自分のためだけに勉強するというのは、つらく、つまらないものだ。(といって自分のためになっているのかさえ怪しい。)今、いろいろとつらいのは自分に忠実に生きていないからかもしれない。親の目、教師の目、世間の目を気にしているからにほかならない。早く自由になりたい。他の人の目からすれば・・・また他の人だ! もう他人の目なんか気にしたくない! 実はだれも自分をみていなかったりするのである。どうしようもないときはただ忍ぶしかない。
今だからいえるが、僕は齢17にして親からくすねた酒を飲み、憂さを晴らしていた。しかも日本酒にして2合くらい、毎日のように飲んでいた。皆勤が取り消しになった唯一の欠席は「2日酔」である。信州に引っ越す時、隠しためた発泡酒の缶が天井裏から大量に出てきたときは、さすがに自分で呆れてしまった。
しかしなにはともあれ、いわゆる危機の時代を乗り越えることができたからこそ、いまここに僕という、まあさえない人間がいるのである。思えばいちばんものを考え、真剣に生きていたのは高校生の頃だったかもしれない。5年が過ぎ、将来を決めるであろう教育実習を前にして、また自分に真剣に向き合わざるをえない時が来た。真剣であるぶん、しんどさも大きくなる。今度も僕は乗り切れるだろうか。
2007年6月7日
私が、小学校4年生のときに、不安でいっぱいな気もちで転校してきたとき、まっさきに仲良くなった友だちがいた。私も彼も絵が好きだったので、ある日の昼休み、当時はやっていた長野オリンピックの原田選手の大ジャンプの絵を一緒に描いたり、競走馬「セイウンスカイ」の絵を描いたりして遊んだことが、まるで昨日のことのように鮮やかに思い出される。中学からは別々の学校へ進み、それから会うことはなかった。ひとづたえに彼の様子をきくたび、あいつも故里でがんばってるんだな、自分もこの土地でがんばんなきゃと思った。
今朝この通信をかいているときに、私の母親から電話があり、その友だちの訃報を知った。電話口に言葉をかえせない。別々の道に進んで、その途上に何があったのだろうか? 何も分からない。 私に思い浮かぶ友だちの姿は、分かれて以来、小学校6年生のままで時を止めている。一緒に水槽の水を使ってふざけて遊んだこと、顔を真っ赤にして怒っていたこと、バスで一緒に塾に通ったこと、「けんかをしてるでしょ」と女の子に言われ、「そんなことないよ」と2人で弁解し、仲直りしたこと。そういった記憶の断片が、次から次へと思い出され、苦しいような寂しいようななんともいえない気持ちになる。思えば、私にとって小学校時代がもっとも友だちに恵まれ、励まされていた。自分にも友だちにもいちばん素直でいられる頃だった。
私がなにかをいえる資格はない。ただ一生のうちの一時期を、親友として過ごせたことに感謝している。
ご冥福を祈ります。どうか、天国でも、僕たちが子どもだったときのような素直なあなたでいてください。
2007年6月6日
やっぱり僕ってちょっとおかしいんじゃないだろうか? それに気づかないのは、回りの人がいつも気遣ってくれているから、なんじゃないか? うすうすおかしいと思っていたけれど・・・自分は普通の人だと思っていたけど・・・・・・。今日も普通に発言したつもりだったが人から笑われる。僕ってちょっと変ですか? これでも一生懸命生きているつもりなんだけど。いつかこんな日が来るんじゃないかと恐れていた。
・・・・・・でも、そんな日もあるさね。今日まで生きてこれたんだから何とかなるよ。
大げさだよな。まるで明日、死ぬ人のようなことをいっている。
人から危害を加えられたわけでなし。
病気をしているわけでなし。
借金を抱えているわけでなし。
食べ物に困っているわけでなし。
雨に濡れたら乾かせばいい。
泥まみれになっても洗えばもどる。その程度だ。
どうしようもない、どうにもならない、なんてことはない。
また他人を苦しめている立場にあるわけではない。幸いに。
僕は恵まれている環境にある。ただ感謝することを忘れている。人とつながっていることを忘れている。
寝て、元気を取り戻そう。四時に起きれば大丈夫だと思う。それに、「眠れる」ってことは、僕の精神がまだまだ正常の域だってことだろう。
昨日、今日、多くの課題をこなした・・・
・・・・・ドイツ人の学生バックパッカー2名を寮に連泊させる。伊那の友だちから急に連絡があり、急遽止めてほしいと頼まれたからだ。来寮者規約を遵守しなかったため、寮生から裏で厳しく注意をうける。問題になることは分かっていた。でもどうしようもなかった。英語にかなりのコンプレックスを抱いていたが、案外その気になればコミュニケーションがとれるものだと知った。彼らは明日、東京へ発つ。
・・・・・旅人の受け入れで、あたふたしていても、大学の課題はやらなければならない。「自然だより」と公民ゼミの発表レジュメ・スライドを徹夜で作り上げる。
・・・・・・家庭教師。毎日の部活で疲れきっているその子。初めての中間試験、成績は僕に見せられないほど。結局今日は疲れていたので三十分で終わることになった。成績を上げることが勉強の目標になると、面白さも色あせる。どうやってつかれきった子のやる気をひきだすことができるだろう?
・・・・・・帰りに妻科神社の神木に寄りかかって話しかける。・・・と一匹のゴキブリが僕に寄ってきた・・・青ざめて寮に帰ると、僕の部屋の前にも1匹。「仲良くしようぜ」といいつつ、さりげなく階下へ落とす。
・・・・・・夜寮の会議。二か月分の寮費が僕の手元に。ゆうに200万ある。万札ばかりではないから、重ね合わせると、大変なかさになり、何度も数えなおしては、青ざめる。こんなもの部屋にあったら何が起こるかわからない。封筒に分けて、明日、82へ現金輸送だ。
ちびへびは急いで家にもどり
おうちの中から鍵をかけ
燃え残りの蚊取り線香のようにまるくなって
ねむった
でも・・・・・・
課題があるのだもの、あんまり寝てられないよ。明日は実習の舞台となる長野附属小へいく。
2007年6月3日

6月2日(土)
飯縄山へ
今日はまた素敵な家族に会いました。
原付で飯縄高原にある寮の先輩の実家へ。先輩のお父さんに案内されて、ネマガリタケ(チシマザサの若芽)をとりにいく。
深い山に笹をかきわけかきわけ、3時間ほどで、沢を登る。樹齢百年を超える、栗の木があったり、30mをこす巨大なホウバの木があったり。
地元のひとの呼称で「イライラ」という毒のあるとげのある山菜や、わさびの味のするクレソン、ヨブスマソウという「幻の山菜」も見つかり、午後は広大な畑で農作業を手伝った。おじいちゃんおばあちゃんから愛犬まで、先輩とどことなく似てたりして・・・・・
ネマガリは寮に持って帰って、寮生と夕飯に。サバ缶を入れた味噌汁とホクホクしたネマガリタケが絶妙です。先輩、素敵な休日、どうもありがとうございました。
6月3日(日)
黒姫山へ
次の日は、ゼミの仲間と3人と昨日の飯綱山の近くにある黒姫山へ登山! 長野市に住んでいると、その気になればすぐに山に登れてしまう。残雪も少しあり、山頂付近ではまだ桜が咲いていた。
昨日は原付で飯縄までいったのだから、今度は一人で来て登ってみようと思う。

山頂のプレート 黒姫山2053m
←これが本物の「エンレイソウ」。花が黒い。この前の山菜キャンプでの写真は「シロバナエンレイソウ」。


