今宵も月夜に導かれ、

あっちの止まり木へふわり、こっちの止まり木にふわり。

いったいどこへ行き着くのやら。

そんな「月夜のみみずく」の自分のための備忘録

「私の声が聞こえるはず」 Lovely Born ラブリー・ボーン 

2010年2月28日

 

http://www.youtube.com/watch?v=wVTLhcTAnvw  予告




みなとみらいのワーナーマイカルシネマズ で映画を観た。

「ラブリーボーン」・・・この邦題は、ボーンは「骨」であるのか「生まれる」なのか最初わからず、まぁさかいくらなんでも「骨」ではないだろう。


そう、勝手に決め付けていた。「よくある恋愛映画の類。ラブリーなんとかってことは、要するに恋愛のなにかだ」、そうみみずくは思った。


上映が始まってしばらくして、実際のストーリーは、最悪で悲惨なものであることが予想された。14歳の主人公スージーが、連続少女殺害犯の男に目をつけられ、殺され、ばらばらにされてしまうという、阿鼻叫喚の実写と展開。



「これほど観て落ち込む映画もない・・・」・・・直後の感想はそうであった。そして今日という日にこの作品に出会えたことの意味を考えざるを得なかった。

というのも、映画を観たのはみみずくひとりではなくうら若き、年下の女性が隣にいたのである。


下調べもなく映画を観た。 グロテスクな作品だった。それはようするに致命的であるように思えた。

もはやこっちがコメディの主人公だ。

けれども、帰り道、一人でとぼとぼ歩いて帰る道のり、思い返せば、見ごたえのある作品だったと思い返す。主題は、「猟奇的殺人」だとか「推理」ではない。主人公は、死にながらも生きていて、天国まで浮遊するあいだ過去を回想する。そのあどけない主人公の美しくそして明るく描写された「死後の世界」からの声に、作品は救われている。


死後の世界からの声、みみずくはそれを実体験として持っていた。だから本当は、生と死の越えられない壁に対峙して、叫び涙する、スージーと父親をみて、隠しつつ涙が止まらなかった。


目をつぶりたくなる残酷さだった。犯人も醜悪、最悪を演じきっていた。しかし「幸福 」だけでは、作品にはならない。

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