今宵も月夜に導かれ、

あっちの止まり木へふわり、こっちの止まり木にふわり。

いったいどこへ行き着くのやら。

そんな「月夜のみみずく」の自分のための備忘録

2009年9月4日

 

コンソメパンチ様

ご心配をおかけしてしまったようで申し訳ございません。後日、ぐーすか。あの晩はすこし神経が高ぶっていたようです。睡眠障害とまではいきません。また、幸いにしてか不幸にしてか、現在も精神科に通院しているので、不調があれば相談できます。


さて、文面に「何も解らなくなってしまった人は…」とあります。それはいつも思います。今日90歳を迎えたおばあさんは、ご飯をお出しするとと必ず「料理屋さんにいったみたいだよ」と何回もいいます。「みんなにいろいろしてもらって幸せだよ」と何回もいいます。ドキュメンタリーを作るとして、こんなシーンだけを切り取ってつなげれば「ほほえましいもの」ができます。


ほほえましいけれど、ドキュメンタリーとしては嘘だし面白くもない。


現実は、このおばあちゃんは小さなことに固執し、愚痴だとかや嫌味もそれ以上に何回も何百回もいいます。まるで姑が嫁をいじめているようにきつく、毒々しくいいます。そんな生なましいシーンを適度に(笑)加えて初めて味のある映画ができると思います。


どこまでが紛れもないその人なのかか、どこまでが認知症なのか、素人目では判断がつきません。まして幸せかどうかなんて、わかりはしない。


不幸でないことが幸せなら、衣食住が与えられているここの住人は、「幸せ」だとみみずくは思う。しかし「親族から見放されて」という条件なんかがついたりすると「不幸」なのかなとも思う。わからない。


認知症であれ、精神障害であれ、さらには健常なのひとであれ、他人の立場からすれば幸せにもみえるし不幸にもみえる。ただそこで大事だなあ、と思うのは、たとえ認知症や老化が進んで言葉すら発することが困難になっても、その人の表情の微細な変化やささいなしぐさで、感情や意思は読みとれるということです。「幸せ」かどうかはわからなくても、悲しいとか寂しいとか、うれしいとか楽しいとか調子が悪いとかいいとか、快適か不快かはわかる。

それを頼りに介護していくほか、ないのかもしれません。

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