研究室の恩師と、親しい仲間の両親から。
なかにはそんなに遠い昔ではないけど、懐かしい、信州の林檎!……
箱をあけたとたん林檎の甘酸っぱい香りがに満ちる。それは先日出した、たった一枚の絵はがきへの返信だった。
5月に薄紅色の花を咲かる林檎。神様の果実は雨耐え、風に耐えた、偶然、鎌倉にとどいた。とどいてはじめて、この時期が林檎の季節だったことを思い出した。
先日亡くなった北杜夫の続きをかくつもりだったけれど、一言でいえば彼が戦後信州で魅せられたものが、何年もさかのぼって、多くのひとの心を捉えたということである。みみずくはその一人だった。
恥ずかしいけれど、憧れて短けれども濃密な時間を過ごした北信州の山々を思うと、神奈川帰ったいまも、まるで昔の恋人を思いだすような気持ちになる。
もし、あの薄汚れた、怠惰なようで勤勉だった学生寮時代に戻れたなら、みみずくは……いま戻れたなら……。たった数年前さかのぼることができたら…
止めよう。
失われたものじゃない。
失うことは新しいことを得るための不可避の代償だ。その痛みが大きければ大きいほど、人はなにかを知る。
それは当たり前に感謝できる気持ちと、いまというときが、限りなく尊いということ。今年初めての真っ赤な林檎を見て思う。
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