今宵も月夜に導かれ、

あっちの止まり木へふわり、こっちの止まり木にふわり。

いったいどこへ行き着くのやら。

そんな「月夜のみみずく」の自分のための備忘録

それは長いようで短い1日

2009年2月21日

 

朝から夕方まで松本で、仲間とゼミの後輩へ贈る箸を一本一本削る。

長野へ帰ってきたのは日付が変わってから。寮の食堂で、電動のこをつかい、小枝をきり、箸袋の留め具をつくる。

食堂を通るひとたち。陽気な酔っ払いの女の子。別れた男がしつこいと、繰り返し、どことなく、引き留めることを待ちわびているかのような……

深夜二時、ぬるま湯の風呂で、一時間くらい寮の友達とはなす。性格は真逆、あいては寮一の楽天的、初対面でこいつとは付き合えないと思っていたけれど、時々だいぶ深い話をする。律法社会において女風呂をいかに安全にのぞくかについて等々下らない話始まり、親孝行と不幸について、教育について、生き方について死について……気づけばもう風呂は水になり、外は氷点下。


深夜三時、食堂のすみでウクレレをひとり、「3月9日」、をポロポロ。ウクレレは陽気な楽器なのに、時々、悲しみを乗り越えたあとの、心の穏やかさを奏でているような音色を奏でる。


「3月9日」この曲が似合う季節がまたやってくる。一昨年、寮祭で先輩たちが合唱していて、気づくとあの人を思いだしてしまう。


瞳をとじればあなたが

瞼の裏にいることで

どれほど強くなれたでしょう

あなたにとって私もそうでありたい


……風呂のなかで、亡くなる前日に偶然電車のなかで会い、悩みを聞いていた寮の先輩がいたということを、いまはじめてきいた。初任のクラスが学級崩壊だったらしいことも聞いた。話が、なぜかそういう方向にいってしまったのは、これから彼にとっても僕に取っても立ち向かうべき問題を、そこに認めたからなのかもしれない。大きな、社会をとりまく、歪みという……


彼女を思いだすとき、もしも、前日に会ったのが自分だったら、もしも、もっとまわりに気をつけていたら、もしも、気持ちを整理して事前に伝えていれば…不幸は訪れなかったんじゃないか……と思ってしまう。


こんなふうに「もしも」といままで何百回考えただろう。そのたびに、一瞬だけ、亡き人が笑顔で僕の瞼のうちに蘇える。

「あなたにとってもそうでありたい」……いまからでも遅くないだろうか。僕は、誰かにとって価値のある存在、命を支える人間になれるだろうか?


客観的に生きる意味なんか存在しないのは、自明のことだと僕は思っている。そんななか、ひとつ確実にいえるのは、自分が生きるためには、他の生を奪っているという紛れもない真実。それだけの価値がないのなら、人はみんな動物に食べられて死んでも仕方ない。
命を奪って生きるなら、命を奪われるリスクを背負ってこそ生命の平等は保たれる。人間は自然から逸脱しすぎた。けれども、いま地球では、人間がもとの地位にもどるよう、力が働いているかのようだ。それに立ち向かうべきなのか。

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