今宵も月夜に導かれ、

あっちの止まり木へふわり、こっちの止まり木にふわり。

いったいどこへ行き着くのやら。

そんな「月夜のみみずく」の自分のための備忘録

1年ぶりの投稿

2012年11月28日

 

重心施設より1年で異動、10月より
Y市の総合病院の整形外科入院病棟で働くことになった。

みみずくは前の職場で、みみずくらしく、
不祥事を起こし、「懲戒」をくらい、
免職のおそれもあったが、
飛ばされただけで済んだ。


辞めてもよかった。けれども次の仕事もないし
このご時勢仕事があるということはありがたい。
だから恥を忍んで働くことにした。
恐れ多くも天のははからいとさえ思える。

いろいろあってのことだが、あえて書く事もないと思い、
一年あまり更新が途絶ざしていたが・・・



以下、看護部への入職に際して、提出した書類。
看護部に入植といってもみみずくはなんちゃってヘルパー2級で、
まさか病院で働くことになろうとはつゆも思いだにしていなかった。

   * * *

看護に対する私の考え


○○病院看護助手 月夜のみみずく


卒業後、認知症を患う高齢者のグループホーム、特別養護老人ホームにおける介護の経験と、1年あまり当法人の旧重症心身障害児施設XXXにおいて、児童指導員をさせていただいた経験を生かし、未熟ではありますが、今の私の考えを書く事に致します。   



看護とは私の理解では、医師と患者のあいだを取り持ち、患者の心を含めて、総合的に回復に導く仕事です。回復とは、患者の「病」「怪我」を治すこと、福祉の言葉を使えばQOL、ADLを向上させることも重要な役割です。同時に、高齢社会の今はとくに、生きるものには抗うことのできない確実な「老い」と「死」に寄り添う役割が増えてきたことも、付け加える必要があるかと思います。


 
だいぶ話が飛びますが昨日のことです。引越し先の平屋の畳替えの途中で、床下に潜っていたところ、猫の白骨がでてきて、思わず声を上げてしまいました。ちょうど私が布団を敷き寝ていたとなりで、何十年も日の目にあたらず、眠り続けていたわけです。

はじめは怖いと思い、そしてだんだんかわいそうな気がして、庭で火葬し荼毘に伏しました。けれども意外なことに大工さんや畳屋さんの話では、それはいいことだと言っていました。すなわち、猫は死に目を見せないように、死期を悟ると、世話になった飼い主の家の軒下で息絶えるのだといいます。けだし、いわゆる野垂れ死には、人間以外のすべての生命では自然のものであり、むしろ病院のベットで、治療を受け、ときに最期を迎えるということが、いかに特殊なことであるかということを痛感しました。そして最初は怖いと思っていた猫の表情にどことなく、死に際まで貫いた意地と安らかさを感じられたのでありました。



ともあれ、老い方や死に方は異なれど、病や死は、人間・動物関係なしに、必ず訪れるのは少なくとも間違いありません。これほど確実なこともありません。人間においても、病のもとでは、どんなに地位が高かろうが、お金を持っていようが(社会的な飾りと言えると思います)、同じ浴衣を着せられ、同じ日に入浴し、病気という現実をまえに、人は平等です。(もちろんそこには苦しみだけでなく快復する喜びもあるのですが)



そう言った意味では病院というのは、大げさに言えば、人が自分の人生に向き合う時間と場所を提供するところとも言えます。宗教のない日本人にとってそれは、教会に変わる場所と似ています。



そんな時間、場所において、私たち医療職、ことに看護職は何をすればいいでしょうか。



正確に薬を投与したり、優れた手術とリハビリを施したり。肉体的な苦痛を軽減し、元通りの状態に回復するよう、西洋医学の科学に基づいたさまざまな手法で、手を尽くす。  

もちろんそれは病院としての絶対的な条件です。



そしてそれは必要最低限の条件でしかありません。



そこに、患者さんの心に寄り添い、苦楽を共にする姿勢や、心配りがどれくらいあるか、それが病院の善し悪しを決める条件になってきます。病院の良し悪しだけではなく、それも、患者さんを恢復に向かわさせる、医療行為同等の大きな原動力になると考えます。これは残念ながら、医療点数をはじめ数値で表すことができません。

 

看護職は、もっとも患者さんと接する時間の多い、つまり隣り合わせにいる職種です。ですから、以上に述べた、プラスの条件が、大切になってくると思います。言葉にすると簡単ですが、苦しみを分かち合う。これはしかし一体どうすればできることなのでしょうか。よくきく「傾聴の姿勢」であるとか「カウンセリングマインド」で果たしてどこまで苦しみは分かち合えるのか? 



私にはまだわかりません。もしかしたら、詳しくはまだ知らないのですが、当法人のスピリチュアルケアが関係してくるのかもしれません。



いずれにせよ、昨日の猫も、私たち人間も医者も看護師も看護助手も患者さんも、一回限りの生命ということだけは平等で、長さは違えど同じ線上を歩んでいます。誰しも直線上で、もしかしたら病があり、怪我もあるかもわかりません。職業上、ケアする側とされる側という関係に立っているだけです。そういったときにくれぐれも「私が」という一人称一視点に陥らず、俯瞰して、相手のことを深く思いやれる、そういう仕事ができればと考えています。

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