重心施設より1年で異動、10月より
Y市の総合病院の整形外科入院病棟で働くことになった。
みみずくは前の職場で、みみずくらしく、
不祥事を起こし、「懲戒」をくらい、
免職のおそれもあったが、
飛ばされただけで済んだ。
辞めてもよかった。けれども次の仕事もないし
このご時勢仕事があるということはありがたい。
だから恥を忍んで働くことにした。
恐れ多くも天のははからいとさえ思える。
いろいろあってのことだが、あえて書く事もないと思い、
一年あまり更新が途絶ざしていたが・・・
。
以下、看護部への入職に際して、提出した書類。
看護部に入植といってもみみずくはなんちゃってヘルパー2級で、
まさか病院で働くことになろうとはつゆも思いだにしていなかった。
* * *
看護に対する私の考え
○○病院看護助手 月夜のみみずく
卒業後、認知症を患う高齢者のグループホーム、特別養護老人ホームにおける介護の経験と、1年あまり当法人の旧重症心身障害児施設XXXにおいて、児童指導員をさせていただいた経験を生かし、未熟ではありますが、今の私の考えを書く事に致します。
看護とは私の理解では、医師と患者のあいだを取り持ち、患者の心を含めて、総合的に回復に導く仕事です。回復とは、患者の「病」「怪我」を治すこと、福祉の言葉を使えばQOL、ADLを向上させることも重要な役割です。同時に、高齢社会の今はとくに、生きるものには抗うことのできない確実な「老い」と「死」に寄り添う役割が増えてきたことも、付け加える必要があるかと思います。
だいぶ話が飛びますが昨日のことです。引越し先の平屋の畳替えの途中で、床下に潜っていたところ、猫の白骨がでてきて、思わず声を上げてしまいました。ちょうど私が布団を敷き寝ていたとなりで、何十年も日の目にあたらず、眠り続けていたわけです。
はじめは怖いと思い、そしてだんだんかわいそうな気がして、庭で火葬し荼毘に伏しました。けれども意外なことに大工さんや畳屋さんの話では、それはいいことだと言っていました。すなわち、猫は死に目を見せないように、死期を悟ると、世話になった飼い主の家の軒下で息絶えるのだといいます。けだし、いわゆる野垂れ死には、人間以外のすべての生命では自然のものであり、むしろ病院のベットで、治療を受け、ときに最期を迎えるということが、いかに特殊なことであるかということを痛感しました。そして最初は怖いと思っていた猫の表情にどことなく、死に際まで貫いた意地と安らかさを感じられたのでありました。
ともあれ、老い方や死に方は異なれど、病や死は、人間・動物関係なしに、必ず訪れるのは少なくとも間違いありません。これほど確実なこともありません。人間においても、病のもとでは、どんなに地位が高かろうが、お金を持っていようが(社会的な飾りと言えると思います)、同じ浴衣を着せられ、同じ日に入浴し、病気という現実をまえに、人は平等です。(もちろんそこには苦しみだけでなく快復する喜びもあるのですが)
そう言った意味では病院というのは、大げさに言えば、人が自分の人生に向き合う時間と場所を提供するところとも言えます。宗教のない日本人にとってそれは、教会に変わる場所と似ています。
そんな時間、場所において、私たち医療職、ことに看護職は何をすればいいでしょうか。
正確に薬を投与したり、優れた手術とリハビリを施したり。肉体的な苦痛を軽減し、元通りの状態に回復するよう、西洋医学の科学に基づいたさまざまな手法で、手を尽くす。
もちろんそれは病院としての絶対的な条件です。
そしてそれは必要最低限の条件でしかありません。
そこに、患者さんの心に寄り添い、苦楽を共にする姿勢や、心配りがどれくらいあるか、それが病院の善し悪しを決める条件になってきます。病院の良し悪しだけではなく、それも、患者さんを恢復に向かわさせる、医療行為同等の大きな原動力になると考えます。これは残念ながら、医療点数をはじめ数値で表すことができません。
看護職は、もっとも患者さんと接する時間の多い、つまり隣り合わせにいる職種です。ですから、以上に述べた、プラスの条件が、大切になってくると思います。言葉にすると簡単ですが、苦しみを分かち合う。これはしかし一体どうすればできることなのでしょうか。よくきく「傾聴の姿勢」であるとか「カウンセリングマインド」で果たしてどこまで苦しみは分かち合えるのか?
私にはまだわかりません。もしかしたら、詳しくはまだ知らないのですが、当法人のスピリチュアルケアが関係してくるのかもしれません。
いずれにせよ、昨日の猫も、私たち人間も医者も看護師も看護助手も患者さんも、一回限りの生命ということだけは平等で、長さは違えど同じ線上を歩んでいます。誰しも直線上で、もしかしたら病があり、怪我もあるかもわかりません。職業上、ケアする側とされる側という関係に立っているだけです。そういったときにくれぐれも「私が」という一人称一視点に陥らず、俯瞰して、相手のことを深く思いやれる、そういう仕事ができればと考えています。
今宵も月夜に導かれ、
あっちの止まり木へふわり、こっちの止まり木にふわり。
いったいどこへ行き着くのやら。
そんな「月夜のみみずく」の自分のための備忘録
2012年11月28日
2011年12月28日
区切りがよいところで放置気味のプログを一新したい。
いままでは統一性のない私的な日記だったが、
これからは読む人のささやかな役に立つ情報発信のプログをめざす。
記事の基本構成は
みみずくの関心があり、なおかつ生活の中心として実践もしている2つのカテゴリーに分ける。
1福祉、とりわけ重心での仕事に関する記事
2野外活動から防災に関する記事
来年度、五年あまりつづいた月夜のみみずくは変わります。ご期待下さい。
それではね。よいお年を。
2011年12月16日
みみずくは親友の家にいる。ここは地方都市で夕方であたりは暗くなりはじめて。こんなにのんびりしてちゃ式にまにあわないんじゃないの? ひとりだけあわてている。
式場のある東京に向かう手段は友人の車だけ。もう式場は多くの人が集まっている頃だろう。
東京にいくのに、なぜかのんびりと山の装備を揃えている先輩がいる。アウトドアメーカーに勤めていたので、
みみずくは、自分が買ったばかりの薄いモンベルのインナーダウンをみせて、「これじゃあ寒いですかね…」
友人の女の子の結婚式の時間は迫っている。
高速を飛ばしてもつくのは暗くなってしまう。
いつも大事なとき、こんなにのんびりしている仲間・・・
「早いよね、こんな日が来るなんて」そうだれかが小さく呟いた。
視界が光に包まれ白くなってゆく・・・
* * *
目が覚めた。
みみずくの友だちである彼女は結婚もしていないし、その予定もない。
ただいずれそんな日も来るだろう。
妙に懐かしい感じの夢だった。
2011年12月14日
先ほどの話ではないのだが、
最近なんで自分が福祉なんて仕事をやっているのか考えてる。それもきまって便失禁おむつを替えているときだ。
介護の仕事の基本中の基本、なおかつその一挙一動で介護経験数がバレてしまうもっとも高度な職人技が求められる排泄介助。
その排泄介助をしているとき、みみずくは狐につままれた?気分になる。
これまでオムツなどというシロモノに無縁だった人生を歩んできた我。みみずくの育った環境は福祉と無縁だったし、それに 教師は家業みたいなものがあって、教育大を出たし、実際いまでも教師にならなくっちゃというおぞましい脅迫観念がある。
思いあたるのは…
それはまだみみずくがひよっこ学生だった、ある深夜の衝撃的な一光景であった。
病院のなかだ。
みみずくはやはり今日と同じように不眠だった。不眠といえば格好よい。それは明け方に服用する大量の睡眠薬と、それを超える日中の惰眠によってもたらされる不眠であった。
生まれてはじめての入院
ナースステーションの廊下 で本を読んでいた。かろうじて本を読む、ないしは読むふりをすることが、「わたしは入院しているがここにいる人たちとは違う」学生なんだというわめて脆いアイデンティティを保っていたのだろう。病識がないというやつである。実際のみみずくは突如歌いだしたり、泣き出したり、怒りだしたり、制御困難な立派な患者であった。ここにはかけない恥ずかしいこともいっぱいある。
さてその廊下の一番の奥の病室から、仲間である精神病者の叫びこえが聞こえたと思うと黒いものかげが廊下に飛びだしてきた。
黒いものかげは患者であり、なおかつその黒いものかげは、大量の同じ黒い液体を闇の中でも白い廊下にだらだらと流している。
その直後もうひとり別のものかげも飛びだしてきた。
恐怖感が0から一気にそこなし沼になる。
(続く)
久しぶりの投稿になる。
しかもみみずくらしいマイナス思考がたの投稿である。
blogに毎日のように書き込みをしていた時期もあった。大学生の時は1日に何回か、という日も。
それがいまや月一だ。
精神活動の衰退。表現欲求の低下。
日々の生活に入り浸ると、脳は必要以上に働かない。語彙は目に見えて減りIQは低下する。
もはやみみずくは小学校の漢字をすべて書ける自信がない。
ついこの間も「摂取」とかくべきところを「接取」と間違えた。
そうでなくとも一般に人間の知能指数は25歳あたりを境に低下してゆくらしい。諸行無常、自然の摂理。
さてIQを高めるためには、IQのすこぶる高い人と接すればいいと云う説があるらしいことを知った。英語のスピードラーニングとに似ていて、ただ聴いてりゃ自分の脳が自然のシフトチェンジをするのだ。なんと楽な。
というわけで、メディアをとおして天才といわれる人の会話をいろいろ聞いてみたりする。
しかし天才という人の話は、ようするに、本人の頭脳のなかでは繋がっている思考が、コトバという表現手段になると、とびとびすぎて、一般人のみみずくのサビたあたまが万一影響されでもしたら、ただの支離滅裂になってしまう。
こんな方法ではなくて、もいちど勉強をしたいとも少しは思う。漢文の素読とか。日本史のある特定の部分とか。
でも日々の仕事でいっぱいいっぱいだ。
重心の仕事3ヶ月目となった。
2011年11月24日
湘南の海を見渡せるお寺の一角。そこで僕は、彼と13年ぶりの再開を果たした。
彼は絵がうまかった。休み時間に彼が馬の絵を書いて僕が騎手の絵を書いて遊んだ。馬の名前はセイウンスカイ。
お互い別々の中学に行ってから交友は途絶えた。
でも彼は最高にいいやつで…
1986ー2007 20才
若すぎるとは思わない。
一生の辛苦を味わうには十分すぎる長さだったと思う。
いい人ほど早く天に召される。踏切に動けない猫がいたら迷わず飛び込んで助けにいくやつ。ばかだけど、例えばそんなやつ。
みみずくは汚い。まだまだ死なない。でも、いつでも死ぬ覚悟はできている、といえるような毎日を送りたい。遺言書はブログだけ。ただ、そんな時が訪れるないから今日も生きている。
2011年11月13日
11月の松本で野宿して、いま帰りの新幹線群馬県高崎駅を過ぎた。
アルプスに雪はまだなく、といって紅葉まっさかりの中信の朝の空気はぴんと張り詰め、まもなく訪れる凍える冬を迎えつつある。
そんななか橋の下で焚き火をして銀マットと寝袋で寝た。社会人三年目でやっと安物シュラフを卒業し気温−10まで耐えられるモンベルシュラフは、値段は高いがおそろしく軽量で、信じがたい暖かさ。友人二人は、車で寝た。
松本時代一年お世話になった松本一古く、由緒あり、またぼろぼろの下宿市川荘の大家さんにあいにいった。五年前、まだ小さかったお孫さんたちが元気な小学生に成長したのをみて、嬉しかった。江戸時代からありそうな半ば崩壊していたまるで忍者のからくりやしきのようだった本館は、取り壊され、更地になっていたが。。
写真をみていて、多少狂った大学生時代だったと思う。けれどもはいさえすれば大学はどんな人間でも受け入れてくれる場所だった。地方大学生の生活をしりたい高校生はまず、大学裏手と寮をみるべきだ。そこは社会のあたりまかがひっくりかえる特殊な空間である。
例えば水道はあっても蛇口がないような違和感。蛇口はそこになくてもだれかがもっている。
天井に足跡があったりする。
大学生は小学生にもできるゴミの分別ができない、あるいはあえてしないのか、大学はゴミの山だった。
とにかく、松本ではいろんなひととあい、話して2連休が終わりつつある。
2011年11月4日
研究室の恩師と、親しい仲間の両親から。
なかにはそんなに遠い昔ではないけど、懐かしい、信州の林檎!……
箱をあけたとたん林檎の甘酸っぱい香りがに満ちる。それは先日出した、たった一枚の絵はがきへの返信だった。
5月に薄紅色の花を咲かる林檎。神様の果実は雨耐え、風に耐えた、偶然、鎌倉にとどいた。とどいてはじめて、この時期が林檎の季節だったことを思い出した。
先日亡くなった北杜夫の続きをかくつもりだったけれど、一言でいえば彼が戦後信州で魅せられたものが、何年もさかのぼって、多くのひとの心を捉えたということである。みみずくはその一人だった。
恥ずかしいけれど、憧れて短けれども濃密な時間を過ごした北信州の山々を思うと、神奈川帰ったいまも、まるで昔の恋人を思いだすような気持ちになる。
もし、あの薄汚れた、怠惰なようで勤勉だった学生寮時代に戻れたなら、みみずくは……いま戻れたなら……。たった数年前さかのぼることができたら…
止めよう。
失われたものじゃない。
失うことは新しいことを得るための不可避の代償だ。その痛みが大きければ大きいほど、人はなにかを知る。
それは当たり前に感謝できる気持ちと、いまというときが、限りなく尊いということ。今年初めての真っ赤な林檎を見て思う。
2011年10月30日
2011年10月20日
中央のステンドグラスから朝の光が小さな聖堂のなかにいるみみずくたちを静かに優しく照らしていた。
外は潮風が少し冷たく強いのに建物のなかはの空気は静まりかえっていた。キリスト十字架、左右に偶像、片方は赤子を抱いていたから、マリア様と思われた。岩戸の下で、星の輝きのもとで、羊たちに囲まれるなか、神の子を身ごもった女性。
午前は利用者を連れて短いといっても2回も散歩にいけた。特養で半年かかって2回しか散歩にいけなかったことをしぶしぶ思いだす。比較すれば劣悪とは決していえないけれど、人生のついのすみかとしては少々寂しすぎる場所だったかもしれない。
徐々に仕事がわかってくる。コミュニケーションなどできないのではと疑った子どもたち、大人たちは、言語を超えたあらゆる次元の方法で、意思疎通をしているらしい。ただまだ、日の浅いみみずくはまるで突然異国に漂着したように、その一部しか垣間見えないけれど。
はやく仕事を覚えたい。
ことに自分より年下の小さな子どもにたいしてその仕事とは、決して親にはなれない、けれども親的な役割を担うことであり、ときにはそれ以上である。
2011年10月16日
手紙を書く。
手紙はご無沙汰だ。
みみずくの好きな遠藤周作に触発されて、怠け心に打ち勝ち、文をしたためる。
相手は、大鬱病のときに、面会にきてくれた大学の教育社会学の先生と、そして寮でお世話になった亡き先輩の両親へ。
あなたさまのおかげでいまの私がいます。あなたがいたから、みみずくはいま、なんとか生きている。伝えたいのはそれだけ。
小さな命を守る重心の仕事、二週間たった。
みみずくは、毎日強い海風に吹かれて、日々強くなっている。
あるいは強くならなきてはならない。
2011年10月14日
夜ベッドに寝そべっていたら、窓の外からもろに女の人のあえぎ声が聞こえ、思わず、窓のそとをみる。性に目覚めた思春期の少年ではあるまいに、ちょっとどきどきしたりして。
壁の薄い、築年数100年の浅間温泉時代の下宿を思いだす。ベニヤ板には画鋲の穴が、まるで天の星のように無数にあったっけ。
性の営みに、みみずくは死を連想した。
もしも、生きる目的がセックスをし子孫を残すためで、生命はより環境に適応した強い遺伝子を運ぶためだけの舟だと考えるなら、人間や生物はあまりに哀しい。哀しすぎることで溢れてしまう。
けれども。生きていることは、それだけで世界に影響を与える偉大なこと。そう考える。だから文字通り死んでしまったひとですら生きているといえるし、私を励ましてくれることもある。世界を変えている。
重心の子どもたち大人たちは、助けがなければ生きていけない。自分から主体的に発信することもままならない。
けれども人間対人間の双方向の関わりやぶつかり合いから生まれるさまざまエネルギーは、社会にでることのほとんどない閉鎖的な空間すらを越え、この世界を少しずつ変えていく。
……今まで気がつかなったが、おかげでうちの二階の窓から江ノ島の回転する灯台の明かりが見えるけとを知った。
以上、性と死に関わる連想のお話でした。妄想にならなくてよかったわ。
2011年10月6日
時間があったら仕事で推薦された専門書を買いに横浜までいこうと思ったが、くたびれてやめた。ネットが来週つながれば、わざわざ出向かなくても買えるし、それに、専門書を読む以前に覚えるべき基本的なことがたくさんあった。
新しい職場でフルに働けるように、日常生活では睡眠を充分にとり、なんらかの方法で蓄積された見えないストレスを発散し、余力を残すことを心がける。なおかつ、毎晩、腰痛予防の筋トレをする。部屋にはロフトがありそこからちょうどいいかんじに、金属の手すりが下にでていて、洗濯物を部屋干しできるほか、ぶら下がって、腕を鍛えらる。伊豆七島で登山をしたおかげで、半年の特養生活でなまった身体が、目覚めたようなかんじ。
そして、熟知するのに三年かかるといわれた利用者50人のリストをリフィルにして一冊の手帳を作る。
最後に、一年の封印を破り、8月から処方された抗うつ薬、向精神薬、安定剤を飲む。再発したというのではなく、引っ越しや転職などの環境の変化は、うつの引き金になるから、あらかじめの予防策としてだ。
不安定がなければ、いまのみみずくはいないし、いまの仕事もしていない。
たった一錠で人格が変わってしまう、精神薬の本当の恐ろしさは、特養で改めて知った。そして退職の間際、ある利用者の処方量減らすことを働きかけることに成功した。薬物は必要以上に、飲む必要はない。それは最終的には主治医が決めることだが、自立している人間の場合本人が決めてもいい。
そうして、今日1日生きのびたたことを感謝し、明日の幸運を祈って眠る。
いつからみみずくは神様を信じるようになったのか?
2011年10月1日
特養に異動になる前、認知症のかたが入居するグループホームで働いていた。
仕事としての介護は初めてだった。認知症という脳の萎縮による症状に対面するのも初めてだった。(多重人格など精神障害には、自身が入院してやや理解があった。大学で留学する人より、隔離病棟に入院する人が少ないなんて!)
さてそのグループホームのアルバイト、思えば答えのない、難しい仕事だった。目的は、まざまな働きかけと受容によって、古いこばでいうとと問題行動、徘徊や暴言暴力など原因があって生じるさまざまな周辺症状を緩和すること、さらに生きがいや楽しみ、があって幸せと思える人生の最後のお手伝いをすることにあった。
それは理想であり、完璧に果たすことはできない。介護の途中に、こちらが理不尽に思ってしまったり、時間に追われ苛立ってしまうこともあった。受容することは、相手の生きてきた人生のエネルギーをまともに受けることで、生半可な気持ちでは続けられない。
おいしいといってもらえるような料理、きれいといってもられる料理の腕を磨いたり、夏を前に畑を耕したり、野原の花を摘んで飾ったり、楽器片手に一緒に歌ったりする。
嵐の合間に、そんな、小さな、ことをたくさんする。記憶はなくなっても、"感情のようなもの"は残ると思った。たとえばストレスはたまるものであり、忘れて0になるということがないように。
それが仕事だった。いいやそれは仕事というより、単純に人との人間的な関わりだった気がする。
明後日からは高齢者介護とは離れる。
でも福祉は身体のもつまでは、まだ辞めない。
2011年9月30日
今回立ち寄った、神津島、新島、色根島はシーズンはずれのため、山でも海でもすれ違う人はまばらで、話した人もほとんどいない。
かつて流罪になったり、漂流したりしてこの島々で故郷を思いつつ生涯を閉じた人たち。
明治になって、ときに自然の恵みをうけ、ときには自然の厳しさに打ちひしがれ、島を切り拓いた人たち。
ずっと一人でそんな過去の人たちに思いをはせつつ、鎌倉に帰ってきた。
旅は終わっていない。来月からのここでの生活や仕事は、まだ未知だし、帰ってきた新しい家でかさえ、どこか知らない土地の宿のように慣れない。
だけど、「初めは危ない谷の小川の橋を渡るような心配事は、後に平和に収まる、迷うことなし」と、島の神社のおみくじいわく。神様を信じよう。
2011年9月29日
おおむね人は年齢を重ねるにつれ、所有する荷物が増えていく。それに加え、こころにもさまざまな記憶や感情も蓄積していく。
そしてそれは、時として身に余る重荷になることがある、
みみずくは思う。これは他の人に当てはまるかはわからないけれど、持ち物の多さ、は、こころに抱えこんでいるもの、に比例するということ。
家がごちゃごちゃものであふれていたとき、頭もごちゃごちゃしているように。
荷物もこころに背負い込むものも、取捨選択して整理しないといけない。
というわけで、今日は荷物を全部置き去りにし、服すらも脱いで海に飛び込んできた。
前述したとおりならば
浜は人もいないし水着も本当はいらなかっただろうにちゃんと履いていたのは、みみずくのこころが社会的な何かにとらわれているからかもしれない。
2011年9月28日
登山道入り口でで必要のない荷物を置いていって、標高572mを海抜0mから二時間かけて登る。山頂は、這松と岩と砂漠のような地形で、太平洋の天上のような世界だった。
港へかけて大きな崩落のあとがあり、昔この島の人たちが島を守るために大変な治山工事をしたとのことである。
こんな時期山にはいる人などいない。かつて伊豆七島神が持ち帰っていった残りの水だろうか。山頂には苔むした草むらのなかに小さな水たまりがあって、幾分ちかくなった空を映していた。
2011年9月27日
その昔、伊豆七島の神々が、この島の中央の山で、貴重な水の分配を決める会議をした。
結局、翌朝の到着順で分配を決めることになった。翌朝、御蔵島の神が一番のり。最後についた式根島の神が、ほとんどのこっていない水を見て怒って暴れ、飛び散った水が、この神津島の豊富な湧水になったらしい。
誰もいない、風の強い海岸を歩きつづけて1日が終わる。
こんな小さな島にも特養があること。そして島の小学生の元気なこと!
明日はどこへいこうか。
特養での仕事は無事終わり次の仕事まで一週間休みがある。
余りにも最後の仕事が忙しくて、計画なしの旅行。
芝桟橋からジェット船に搭乗して、行き先は一番遠いからという理由だけで神津島を選んだ。
74�/hでいま東京湾をでた。
2011年9月23日
台風は通り過ぎ、無事荷物は新しい部屋の収まるべきところに収まり、静かに沈黙していた。
* * *
一軒目は、あえて下から攻める。ぴんぽーん。
無言…
二軒目は人気がない。ぴんぽーん。
がさごそ… そして静まる。
夜の8時。時間が遅すぎたか?三軒目は自分の部屋がある二階だ。いわばお隣近所だ。ちょっと恐る恐る、ぴんぽーん。
無反応。
隣部屋の4軒目。怯えはじめたみみずくの意表をついてぴんぽーん、は故障中の張りがみ。
こんこん…こんばんは(小さな声で)
反応がないの過去の三回の経験から容易に推察された。これを演繹法というのか帰納法というのか、あるいはどちらにも当てはまらいのか、わからない。
みみずくは怪しいセールスもしないし、宗教の勧誘もしない。ただ引っ越しの挨拶と、洗剤をお届けに上がったのです。
私は一人。たった一人この新しい町で誰も知る人のいない三日目の夜を迎える。
神様、誰かと話がしたい。
















